2013年11月13日

◆「大村益次郎」暗殺の件(2)

平井 修一


海江田信義は大村益次郎を嫌った。ほとんど憎悪していただろう。どんな経緯でそうなったのかを海江田の談話をまとめた「維新前後実歴史伝」をベースに報告していこうと思っているのだが、まず海江田のプロフィールを紹介する。

海江田信義、別名有村俊斎(武次)は天保3年(1832)−明治39(1906)の薩摩藩士、政治家。薩摩示現流などを学んでいる。

黒船が来航する2年前の嘉永4年(1851)には西郷隆盛を盟主に大久保利通らと「精忠組」を結成、幕政改革を考えるようになり、尊皇攘夷思想を深めていく。弟2人は桜田門外の変にかかわり自刃、海江田は前回紹介したように生麦事件にも関係した。

倒幕の戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として、江戸城明け渡しには西郷を補佐し、勝海舟らと交渉するなど活躍するが、長州藩の大村益次郎とは終始意見対立した。大村が暗殺されると海江田は長州出身者の反発を受け、華族制度施行の際に伯爵になれず子爵になったともいわれている。

新政府に不満をもつ藩父の島津久光からの信頼は厚かった。貴族院議員などを歴任し75歳で死去。

大村についての本は多いが、海江田のそれは非常に少ない。彼が暗殺にかかわったかどうか、本当のところは分からないが、ヒール(悪役)という認識が定着しているからかもしれない。

なお、海江田の長女・鉄子は東郷平八郎に嫁いでおり、「海江田信義の幕末維新」の著者である東郷尚武は海江田の曾孫で東郷平八郎の縁戚でもある。

前置きが長くなって恐縮だが、「維新前後実歴史伝」についても少し説明しておく。

これは明治24年(1891)9月から翌年10月までに刊行された全10巻の和装本である。編述者(編集記者)は西河稱(しょう)、発行者は牧野善兵衛。国会図書館のほか大阪府立、岡山県立などの大きな図書館に所蔵があるようだが、いずれも貸出は禁止で、国会図書館内ではデジタル化したものを閲覧可能のようだが不便だ。

小生が読んでいるのは1990年に東京大学出版会から刊行された復刻版である。日本史籍協会編集の「続日本史籍協会叢書」の第1期第1巻〜第3巻に収録されている。これは横浜市立中央図書館のほか、東京都立や近隣の県立図書館で所蔵しているから比較的入手しやすいだろう。

この復刻版には吉田常吉(1910−1993)の「解題」が付けられている。彼は日本史学者、東京大学名誉教授で、幕末史が専門だという。こう書いている――

<(明治24、25年は)維新後すでに25年、その前後に国事に携わった人々も老年期に達しようとしている。その思いが海江田子爵をして(体験を後世に遺していこうという)提案をさせたものと思われる。彼は諸言で、「吾は自ら“隗より始め”あわせて同感の諸士もまたこの挙に出んことを希望す」と述べているように、実歴談としてはかなり早い時期の出版物である。

本書が実歴談ものの出版に拍車をかけたのだろう、(勝海舟の「氷川清話」など)数年にして旧諸侯、旧幕臣、旧藩士6名の実歴談が出版された。

明治維新前後に際会して国事に携わった壮時を偲び、当時を知らぬ人々のために、古老が実歴談を遺すことは有意義なことである。ただ歳月が経過して記憶が散失し錯誤を犯すこと、あるいは時勢の変化によって現代に即応し筆を曲げることなど、絶対にないとは保証しがたい。

これは実歴談の通弊で、読者はよろしくその点に留意しなければならぬ>

だから「維新前後実歴史伝」は海江田から見た事件や人物像であり、前回紹介した生麦事件のように他の人からみれば「いや実際はこうだった」ということはあるだろう。鵜呑みにはできないということだ。

それと海江田は尊皇攘夷思想だが、あくまで薩摩藩として行動している。後に薩摩藩は大久保、西郷らの主導で天敵の長州藩と同盟し倒幕王政復古・開国近代化・富国強兵路線になるが、海江田が「開国近代化」を支持したかどうかは分からない。藩の方針に従ったまで、ということではないのか。

藩父の島津久光は死ぬまでマゲを落とさなかったそうだが、海江田も廃刀令や武士階級の廃止などを苦々しく思っていた。藩父とともに徹底的な、と言うか、いささか頑迷固陋的な保守主義者ではなかったか。

一方、大村は蘭学者であり兵学者という技術者で、長州藩士になったものの攘夷思想を持っていたとはとても思えない(適塾で同門の福沢諭吉曰く「大村の攘夷は長州藩にいるための自己保身ではないか」)。尊皇ではあっても徳川体制で公武合体し近代化を進めればいいという考えではなかったか。理工系の合理的な進歩主義者という印象だ。

戊辰戦争の戦火が広まるなか明治元年(1868)5月、大村は大総督宮(有栖川宮熾仁親王)補佐、軍務官判事として海路で江戸に到着した。長州閥の大村は不惑を過ぎた43歳、薩摩閥の海江田はまだ血の気の多い37歳。ボタンの掛け違いのような不幸な出会いであった。(2013/11/11)

<「頂門の一針」から転載>
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