2013年11月15日

◆「大村益次郎」暗殺の件(4)

平井 修一


こんなある日のこと、江戸を脱走した賊兵など300人ほどが来て恭順の意を参謀局に告げた。どう対応するか議論になり、海江田は「彼らを江戸府下の諸寺院に収容して謹慎させ、食事を与え、各自にその後の方向を決めさせたらいい」と提案した。

ところが大村「それはだめだ」と、こう反論した。

「彼らは一度朝廷に反抗した国賊である。その罪は決して軽くない。どうして恩典を施す必要があるのか。食事を与えるなどは泥棒に飯をやるのと同じではないか。彼らは必ず悪事をなす。放っておくのが一番だ」

忠義の武士、海江田は逆上した。

「なんと残酷なことを言うのです。朝廷に抗するものは撃つけれども、前非を悟って謝罪、降伏してきたものを殺すようなことは理ではありません。

彼らを放置すれば飢えて強盗や窃盗などの乱暴をし、府下の領民が被害を受けることにもなりかねない。天下に仁政を施すのなら、捕縛された盗賊でも保護し、食事を施し、病気があれば薬も与え、非を改めれば刑をゆるめることもあるでしょう。

確かに彼らは大義を誤った匪徒ですが、心情を察すれば、徳川200余年の大城を明け渡す無念から朝廷に抗しただけです。普通の人情なら当然です。主家を思う情によるものでみだりに憎むものではありません。

投降者に食事を施して今後の方向を決めさせようというのは、他の罪人への扱いと変わるものではなく、その恩典にもかかわらず再び抗したのなら直ちに誅すればいい。投降者を死に追いやるようなことは朝廷の本意ではまったくありません」

海江田は投降者に恩典を施し収容した。これ以来、大村は参謀局に顔を出さなくなった。うんざりしたのだろう。

<当時西郷の留守をして大総督府の参謀を勤めていた海江田信義が、長州人の大村益次郎が作戦指揮に出てきたのを嫌って、事毎に大村の専断を許さなかったと言われる。藩に依って差別の色が強烈なのは、薩長のような権力を競走する立場ではことに露骨であった。国の意識よりも藩の方が先行するのである。

大村は容れられないので一度は帰京しようとまでしたが、自分と意見の共通した江藤新平が江戸にきたので思い直した>(大佛次郎「天皇の世紀」)

駿府の大総督宮(有栖川宮熾仁親王)が江戸に来て大総督府を城内に設けた。ある日、宮から海江田に呼び出しがあり、宮はこうおっしゃる。

「聞くところによれば、このところ参謀局では意見対立があり、薩長の不和になりつつあるそうだが、これは本当なのか。このままでは大きな禍になりかねないから深く注意しなければいけない」

大村が宮に訴えたのだろうと海江田は不快になったが、ここ数日の論争の顛末を説明し、こう結んだ。

「大村判事は長州人で私は薩摩人ですが、これまでの論争は個人としての大村判事と個人としての私の間での意見対立であり、薩長の意見を代表しているものではなく、薩長の不和をかもす恐れはありません。私の意見が誤りで大村判事の意見が正しいのなら私は大村判事の説に従い、非を改めることを惜しむものではありません」

普通ならこのあたりで「いずれにしましても宮にご心配をかけましたのは私の不徳の致すところです。以後重々注意いたします」となるが、海江田は畏れ入って引き下がるようなヤワではない。宮に向かってこう言ったのである。

「宮は私と大村判事のいずれが正しいと思われますか」

これはいささか無礼であり、宮は困惑したが、海江田の言い分を聞いたばかりだし、公家伝統の優柔不断からだろうか、「お前の方に理がある」とおっしゃった。

「それならば大村判事が非を認めずあくまでも自説を貫こうとするのは人間としておかしいでしょう。大村判事をここに呼んで宮が裁断してください。そうすれば薩長不和にもなりませんし、私ども二人も釈然として融和するでしょう」

海江田の迫力に押されて宮は大村を召されたが、大村は多忙を理由に来なかった。海江田とやり合うのを嫌ったのだし、宮が大村の「海江田を参謀局からはずさなければ私は京に帰ります」という言葉に「まあ待て。麿が海江田を説こう」と言っただろうから、大村としては「私が出る幕ではありません、宮ご自身でご決済ください」という、突き放した態度からだろう。

数日後、再び宮は海江田を召したが、宮はとても憂慮しているようだった。海江田は言う。

「難しい事情があるようなら私が職を辞します。勤皇の仕事が終わったわけではありませんが、江戸城の明け渡しという難事にも努めて幸いにも無事を保つことができました。辞職してもその事跡は残りますから無念とは思いません」

宮はしきりに止めたが、海江田は翌日、病気と称して辞表を提出し、城内から井伊邸へ移った。宮は辞職を認めなかったから休職扱いである。大村はそれ以後、参謀局に出るようになった。

海江田が辞表を出したことで大村との確執はとりあえず一件落着するかに見えたが、その後も続いた。

ある日、休職扱いの海江田が辞表の承認を促すために登城すると、幕府の宝物を集めて海江田が封印しておいた一室が開けられ、宝物が散らばっている。海江田が驚いて管理担当者に「宝物を取り出したのは誰か」と尋ねると「参謀局の命令です」と言う。

どういうわけだろうと参謀局に入ると、大村はいなかったので、他の局員にこう告げた。

「宝物は徳川氏のもので、それは先日、私が田安徳川家の家臣と協力して一室に封印したものだ。時勢が落ち着いた時に政府が受け取ることになるだろうが、それまでは徳川氏の私財であり、みだりに取り出したりするのはどういうわけか。

江戸城が朝廷に引き渡されたのは天下の大義を明らかにしたからであり、簒奪したものではない。徳川方が涙のなかで渡したのは城と兵器、軍艦、兵士であり、宝物の処分は決まってはいないのだ。倉庫を開けるというのはまるで掠奪ではないか。どういうわけなのか」

するとある局員が「ちょっと鑑賞していただけだ」と言う。海江田は怒った。

「何をバカなことを言っているのか。府下の人心は定まっておらず、奥羽の賊軍はまだ平定していず砲煙弾雨の中にある。多くの同志が倒れ、あるいは傷ついている。それなのに宝物の鑑賞とは時勢無視も甚だしい」

局員は恥じて再び宝物を倉庫に封印したという。

封印を解除させたのは大村である。官軍と言っても兵器調達のための軍資金はいくらあっても足りないから宝物を売却する準備として部下に「高く売れそうな宝物を選び出しておけ」と命じたのだろう。海江田は大村が宝物を私掠しようとしていると思っただろうからなお一層嫌悪したに違いな
い。(2013/11/13)

<「頂門の一針」から転載>
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