2013年11月16日

◆「大村益次郎」暗殺の件(5)

平井 修一


大村が着任した明治元年(1868)5月の江戸は、幕府残党による彰義隊3000名が上野の東叡山寛永寺に集まり不穏な動きを示していた。西郷隆盛や勝海舟らもこれを抑えきれず、江戸中心部は半ば無法地帯と化した。

大村は奥州討伐の増援部隊派遣の段取りを図るなど、矢継ぎ早に手を打ち、5月初旬には江戸市中の治安維持の権限を勝から委譲されて江戸府知事兼任となり、市中の全警察権を収めた。

こうして満を持した大村は討伐軍を指揮し5月15日、わずか1日で彰義隊をの軍議でも大村は海江田と対立、西郷が仲介に入る場面があった。この席上で大村が発した“君はいくさを知らぬ”の一言に海江田が尋常りを見せた」(ウィキ)とあるが、本当なのかどうか。

司馬遼太郎の「花神」にはそう書いてあるのだが、「君はいくさを知らぬ」の言葉は出典が書いていないから創作ではないのか。もし原典があるのなら他の作家や学者も引用するはずなのだが、どこにも見当たらない。海江田の談話にもない。

司馬は大村大好き、海江田大嫌いで、この言葉を創作することにより二人の決定的な対立を演出したのではないか。いくら小説でも誤解を与えるような記述はどうかと思う。(福田恒存、安倍晋三、渡部亮次郎らも司馬作品に疑問を呈している)

この軍議で海江田は「兵力が不十分だから討伐の即行は困難」と主張した(大佛次郎)が、京都から帰ってきた西郷が大村の指揮下に入り総攻撃の決行に賛成したから海江田に否やはない。西郷とともに薩軍を率いて戦った。

それから1年後の明治2年(1869)5月17日、函館五稜郭で榎本武揚らの最後の旧幕残党軍も降伏し戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が成った。

その年の7月に海江田は京都に新設された「弾正台」支台の弾正大忠(長官)に異動した。新政府の警察・監察機関だったのだが、とんでもない組織になっていく。

<維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあり、したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであった。主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各省の非違を糾すという名目で、彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げるようになったのである>(ウィキ)

海江田の談話から――

<そのころ、朝廷では陸軍の制度を改革し、武士の佩刀を廃止しようとするなど、ほとんど我が国固有の武道を疎外する傾向があった。私はすこぶるこれを憂慮し、しばしば建議したが、結局は採用されなかった。

京都の私立学校で演武の大会があり、全国から剣客が陸続と集まり、私は巡視したが、戸田栄之助、高山峯三など名のある剣客だけでも十人ほど参加していた。

私は赤胴の具足を新製して彼らに贈り励ました。剣客は皆大いに喜び、奮い立ったものである。この勢いは廟堂にも聞こえて、ある時、顕官が私にこう言うのだ。

「近頃のうわさでは、君は多くの剣客を保護して武道を奨励しているというが、その本意は何なのか。私には分からないが、剣客などを集めれば結局は変乱を醸成することになる」

私はこう答えた。

「それは思い過ごしでしょう。殺伐のように考えているようですが、真の武人ならそのようなことにはなりません。神聖な武道の不殺の真理を身につければ人心は相和し、変乱の禍もなく、国体も一層健全になります。

そもそも武道は我が国固有の伝統であり、剣を学び、剣の徳、武の徳を身につけて精神を鍛えれば、人々の意識はいよいよ元気になり、国も発展するでしょう。

全国の剣客もそういう考えであり、変乱を起こす恐れなどありません。剣客が集まるのを懸念する者はその本質を知らないからであり、ともに武を論ずる相手ではありません」

顕官は呆然として口をつぐんだ>

顕官を前にして「あなたは真の武人ではない、ともに武を論ずる相手ではない」と言うのだから、「いやはや海江田の火遊びには困ったものだ」と顕官は思ったろう。

一方の大村は「自分は武士である」と意識したことがあるかどうか。刀が武士の魂だとは思わなかったろう。剣や武を愛する海江田とは水と油である。

大村は長州戦争以来2年間にわたる戦争指揮の経験を踏まえながら近代日本の軍制建設を進めてゆく。諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。

明治2年6月、大阪に軍務官の大阪出張所を設置し、9月には大阪城近くに兵学寮を設け、また京都に設けられた河東操練所において下士官候補の訓練を開始した。京都宇治に火薬製造所を、また大阪に砲兵工廠を建設することも決定した。

<大村が建軍の中核を東京から関西へと移転させたことについては、大阪がほぼ日本の中心に位置しており、国内の事変に対応しやすいという地理上の理由のほかに、自身の軍制改革に対する大久保派の妨害から脱するという政治的思惑によるものも大きかった。そのほか、大村が東北平定後の西南雄藩の動向を警戒し、その備えとして大阪を重視したとの証言もある>(ウィキ)

7月に初代兵部大輔に就任した大村は軍事施設と建設予定地の視察のため京阪方面に出張する。

特に廃刀令を進める大村に対する海江田の思いは嫌悪から憎悪となっていったようだ。「京都では海江田が遺恨を晴らすため不平士族を使って大村を襲うよう煽動している」などの風説が流れて不穏な情勢だった。

木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、大村はそれを振り切って中山道から京へ向かった。(2013/11/14)

<「頂門の一針」から転載>


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