2013年11月17日

◆「大村益次郎」暗殺の件(6)

平井 修一


大村益次郎は明治2年(1869)8月13日に京都に着き、伏見練兵場の検閲、宇治の弾薬庫予定地検分を済ませ、20日に下阪する。大阪では大阪城内の軍事施設視察、続いて天保山の海軍基地を検分。9月3日、京へ帰る。

翌4日夕刻、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の神代直人ら8人の刺客に襲われる。

静間と安達は死亡、大村は重傷を負った。前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、右膝関節を斬られ、右膝は動脈から骨に達するほど深手であった。

兇徒が所持していた「斬奸状」では、大村襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあったことが示されている。

海江田信義は言う。

<夕方、急報があり、大村益次郎が木屋街の旅館において刺客に暗殺されたという。私は直ちに大巡察を遣わし現場を検証させ、京都府一帯に非常線を張り刺客を捕縛した。刺客は長州などの浪士だった。

その後大久保利通が東京から書(手紙)を寄せ、「大村暗殺の凶変に関して、海江田は表向きは厳しく兇徒を糾弾しているが、裏では欣然として喜んでいるのではないか、凶変は海江田の教唆によるのではないかといった噂がある」などと伝えてきた。

私はすぐに返事を書いた。「私は当日大村が来京することさえ知らなかった。人をそしるのも甚だしい噂である。今は兇徒の審問中であり、数日後になれば事実が明らかになるでしょう」と。

数日後に糾明を終えたが、国政上における大村の意向を嫌悪するあまりこのような暴挙に出たということに過ぎなかった>

「過ぎなかった」というのは「大したことではない」ということか。軍事軍政のトップ、大臣の暗殺事件をずいぶん軽く見ている気がする。

京都の安を預かる警察の長である海江田が大村の来京を知らなかったというのはにわかには信じがたいが、では兇徒に大村の旅館と宿泊日時を告げたのは誰なのだろう。海江田でなければ弾正台の彼の部下ではなかったか。

神代直人は非常線を突破して逃げ、豊後姫島(大分県)に潜伏していたが、師である大楽源太郎が政府から嫌疑をかけられていることを知ると山口へ戻り、凶行から2か月後の11月に捕縛された。捕吏が来る直前に腹を切ろうとしたが死にきれなかった。

「朝廷エ御願出控」という史料は、山口藩から政府への届書・願書などを綴ったもので、その中に神代直人の捕縛報告書と供述書がある。

まず捕縛報告書。

<神代直人
右の者は先だっての京都における暴動の所業により早々召捕るよう御布令があり、精々探索していたところ、10月上旬、豊後国姫島に潜伏していたので捕縛方を派遣したところ逃亡、周防国小郡にて召捕りました。

すでに屠腹しかけて存命は覚束ないので、京都の始末を糺問して斬首しました。厳刑するようにとの御沙汰もあり、且つ直人は重傷なのでそう処置しました。死体は仮埋葬しました。山口表より、この段を政府へ報告するようにとの申しつけにより報告します。よろしく御沙汰ください。以上山口藩公用人十一月>

次に供述書。

<神代直人 口書
私は国学修行のため京都矢野玄道方に入塾し勉励していたところ、朝廷御入用の御書物買入のため大坂へ罷下りし際、私の弟守人が死去したとの連絡を受け、すぐに書翰を矢野方に差出し、七月上旬に大坂を出立、帰郷しました。

先般、王政御恢復になり、下々に到るまで恐悦しておりましたが、当今に至り外夷(外国)への御取扱が御手厚になり、却て人民の苦しみとなり、外夷の侮りは日々増長し、恐れながら皇威は建たずと存じ、大田瑞穂、団伸次郎と申し合わせて尽力致すべしと決心しました。

大村兵部大輔殿着京となり、大村氏は兼てより開港の説を重張し、今日の形勢に立至ったのも、必竟、彼のせいであり、速に殺害せずには王政御一新の御目途がたちません。

慨歎の至と考えていましたので、金輪五郎、宮輪田進、五十嵐伊織、ならびに京都岡崎の伊藤源助も同論にて、四条上ル町八百屋忠兵衛方その他、諸所に潜伏し、闇殺事件を謀り、終に当九月四日夜、同志の者と染島何某が同道し大村氏旅宿へ斬入りました。

私、五十嵐、染島三人が河原に待機していると、間もなく一人が駆出てき、同志一同内よりそれを追ってきて、この一人を殺害しました。大村氏に相違無いかと尋ねると、相違無いと伸次郎が答えたので、それでは梟首しようと合意しました。旅宿で打果たした者は知りませんが、なお駆出てきた者が一人あり、その他はまったく知りません。

その後、潜伏中に大村氏の首級(頭部)ではないと知り仰天しました。京都を出る前日、百万遍の内に居る佐々木大和助と申す者に一宿を頼みましたが、江戸へ行くというので、居合わせた土屋源吉と申す者に私が帰国したいと言うと、同道しようとのことになりました。

もちろん闇殺の事件は話していません。同月十二日頃出発し、兵庫で乗船し、船中にて私の潜伏所確保を源吉に頼み、姫島にいる清末忠蔵と申す者は源吉の父の門人とのことなので、その父親から清末へ添書を差出して貰い、十月二日、源吉と姫島へ着き、忠蔵方に行き、其の後、同所から船で小郡檀と申す処へ帰ったところ、直に召捕られそうになり屠腹仕掛けました。

右の次第を申し出ます。以上

山口藩公用人 十二月 宍道直記>

この供述書「京都之始抹糺問」には大楽源太郎の名も海江田信義の名もない。海江田が事件に関与していたかどうかは分からないが、少なくとも大楽源太郎は神代など門下生に「大村は君側の奸である、天誅を下すべし」くらいは言っていたはずである。

その代わりに「国学修行のため京都矢野玄道方に入塾し」とあるが、矢野玄道(はるみち)とは何者か。(2013/11/15)

<「頂門の一針」から転載>

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