2013年11月18日

◆「大村益次郎」暗殺の件(7)

平井 修一


矢野玄道(はるみち)は1823年(文政6)− 1887年(明治20)。国学者、神道学者で、明治4年(1871年)に「二卿事件」への関与が疑われ蟄居していたたことがある。

この二卿事件(または「外山・愛宕事件」)は明治4年(1871)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が政府転覆を謀ったクーデター未遂事件である。背景はこうだ。

<尊皇攘夷の中心的な役割を果たしてきた薩摩・長州両藩を中心とした明治政府が成立したことにより、攘夷が断行されると信じていた全国の攘夷派は明治政府が戊辰戦争が終わると直ちに「開国和親」を国是とする方針を打ち出したことに強い失意と憤慨を抱いた。これは倒幕に参加していた薩長土肥の志士や公家の一部にも及んでいた。

彼らは明治政府を倒して新しい政府を作り直して攘夷断行、外国と戦うべきであると唱えていた。

その先駆けとなったのが、明治2年12月1日(1870年1月2日)に長州藩で発生した大楽源太郎に率いられた奇兵隊などによる「脱隊騒動」であった。

この反乱は木戸孝允らによって間もなく鎮圧されたものの、大楽は九州に逃亡して攘夷派が藩政を掌握していた久留米藩や熊本藩の支援を受けて攘夷派志士の糾合を画策し再起を伺った>(ウィキ)

大楽源太郎は、大村益次郎暗殺犯の神代直人らが門下生であったことから首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられていたが、翌明治3年(1870)、多くの門下生が脱隊騒動を起こすと再び首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられ、山口より脱走し豊後姫島に潜伏した。

その後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。さらに久留米に走って応変隊を頼るが、政府からの追捕で明治4年(1871)に斬殺された。

矢野玄道と大楽源太郎は神道的な過激な攘夷思想と「不平士族」の魁(さきがけ)的な憤懣で共通している。神代直人らの襲撃犯、そして海江田信義も同類ではなかったか。

もっとも海江田は新政府の顕官で経済的には恵まれていたから「開国和親」や近代化は受け入れるようになっただろうが、大村の進める廃刀令などには断然反対だった。海江田は同志のような大村襲撃犯を死刑にするのは忍びなかったようだ。

<(明治2年12月19日)勤務を終えて家にいると夕方、当直の足立副長官が来訪し、「京都府から明日の20日に粟田口蹴上で行刑(刑罰の執行)があるので弾正台の立ち合いを求めてきました」と言うので了解した。

翌日に弾正台へ行くと騒々しいが、足立によると今日の行刑の罪人の姓名、罪状などの連絡がないという。それを知らずに立ち合いを諾したのは私の責任だが、急きょ、立会中止を刑場の巡察に伝えた。

弾正台官員で評議したが、死刑は天下の重大事であり、軽々しく扱うものではないということになった。刑部省が死刑を決めたのならその是非を審理するのが弾正台の役目である。このやりとりの後に刑を執行するの筋である。死刑囚でも同じ人間なのだから、きちんと審理すべきなのだ。これが天下の法則である。

京都府大参事の松田道之に「東京の弾正台本部からも何の連絡もない。法則を無視するのでは信義を失い、天裁(天の裁決)とはとても言えない」と伝え、「止刑(執行停止)すべきだ」と書いた書面を渡した。

松田は刑場へ行き行刑中止を命じた。今回の止刑は条理に基づくものだが、軽いことではないので弾正台員一同の進退を朝廷に仰ぐべしとなり、東京の弾正台本部へ二人の巡察を派遣した>

12月22日、止刑に驚いた大久保利通が上京し、海江田に言う。「止刑は天裁の命令を破棄したことであり非常にまずい。明日にでも執行すべきだ。そもそもなぜそんなことをしたのか」などと注意を促した。

海江田は「十余年来、あなたに兄事して微力を国事に注ぎ王政維新がなりました。あなたは今や参議の重任にあり、私もかたじけなくも監察の重職にある。参議と比べれば監察は下ではあるが、責任は軽くはない。たとえ大臣、参議でも非があればそれを糺すのが仕事です」

大久保がいくら言っても海江田は頑なに自説を通し、大久保は説得をあきらめた。その後しばらくすると「糾問の筋これありにつき東京へ出頭せよ」との命令が下り、海江田は薩摩藩邸預けの後に謹慎処分となり弾正台を去った。大村暗殺犯の刑執行は明治2年12月29日だった。(2013/11/16)
<「頂門の一針」から転載>
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