2013年11月20日

◆「大村益次郎」暗殺の件(8)

平井 修一


医者である大村益次郎の軍事的才能を見抜いて彼を歴史の大舞台に引き上げたのは木戸孝允である。木戸はすっかり大村に兄事していた。木戸は伊藤博文から「海江田信義が大村襲撃犯について公然と同情論を口にしていた」という報告を受けていた。

<海江田は大姦物なり。大いにご用心。大村の一條(一件)も彼扇動と申す説これあり申し候。昨年来の私怨にて、己の非は知らず、却って大村を怨み、これまでも大村をおとし候姦謀をたびたびあい企て候由にて、土人(土佐人)などよりも、密かに気をつけ呉(?)候こともこれあり申し候>(木戸から槇村正直宛明治2年10月15日付の手紙)

長州人は海江田を嫌いぬいたろう。そのためかどうか、海江田はその後、奈良県知事に就いたが翌年不祥事で解任され、島津久光のお守り役や貴族院議員などをしていたが、中央政界で活躍することはなかった。

彼の自伝的な「維新前後実歴史伝」の刊行は長州人や周囲の冷たい視線に対して「大村との確執は大村が悪い」「俺はこれだけ国事に奔走したのだ」とアピールしたかったのだろう。その続編のつもりなのか雑誌の取材に応じて掲載されたものは“放談”となり、酷評されて晩節を汚した。

大村は急な西洋化や廃刀令推進により沸々とたぎってきた攘夷派の怒り、怨嗟に無頓着だったのか、あるいは殺されても仕方がない、防ぎようがないと覚悟していたのだろうか。

大村は一命をとりとめたが重傷で、傷口から菌が入り敗血症となる。10月大阪病院に入院するが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受けることとなる。しかし勅許を得ることに手間取り、「切断の義は暫時も機会遅れ候」(当時の兵部省宛の報告文)とあるように手遅れとなってしまった。10月27日に手術を受けたが11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化、5日の夜に死去した。享年46。

木戸は伊藤宛の手紙で「大村没去の報到来。力も落ち、勢御座なく候。痛惜限りなく、御降察下さるべく候」と、いかに落胆が大きかったかを書いている。

「暗殺によって大村益次郎を失った木戸の政治力は、ただでさえ強圧的な薩摩、とくに大久保利通のまえで確実に弱体化していった。気落ちした木戸の心身はそれ以後、消耗の度合いを深めてゆき、明治10年、ついに病死」(木戸孝允館)してしまった。

大村は自己の死を予感していたのか、手帳には次の歌が残されていた。自歌ではなく、文久3年に切腹した長州藩幹部で開国派の長井雅楽の辞世の歌だった。

今さらに何をかいはん代々を経て君のめぐみに報ふ身なれば君のためすつる生命は惜しからで ただおもはるる国の行く末

最近亡くなった島倉千代子の歌「東京だョおっ母さん」は日本人の涙を誘ったものである。

(せりふ)ねえ おっ母さん戦争で亡くなった兄さんここにねむってるのよ

♪やさしかった兄さんが田舎の話をききたいと桜の下でさぞかし待つだろおっ母さんあれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも

(せりふ)ねえお兄ちゃんお兄ちゃんが登って遊んだ庭の柿の木もそのままよ見せてあげたいわ
(作詞野村俊夫、作曲船村徹、昭和32年)

皇軍の将兵が死を恐れず勇猛果敢に戦うために、また命を捧げ英霊となった将兵が崇敬され、この地で再会できるようにと大村は九段坂上に靖国神社まで作った。緻密な合理主義者の面目躍如だ。

神社の大村の銅像は明治26年(1893)に建立された。上野の山にたてこもる彰義隊討伐に際して江戸城から指揮を振るう姿と伝えられる。大村も吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作らとともに維新殉難者として靖国神社に祀られている。合掌。(おわり)(2013/11/17)

<「頂門の一針」から転載>
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック