2013年11月22日

◆伊勢雅臣氏の「韓国論」を読む

平井 修一


もう10年も前だがブログ「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏が「抗日史観を国家の背骨にせざるをえない韓国の“お家の事情”」を書いている。

伊勢氏は昭和28年東京生まれで現在は60歳。理工系で東京工業大学卒、製造業に勤務し、大学の非常勤講師、社団法人国民文化研究会(注1)理事 も務めた。

現在の国民文化研究会の常務理事の一人に伊佐裕氏(伊佐ホームズ社長)がおり、小生の横浜市立大学時代の友人から「伊佐君とは福岡の修猷館高校で同期だ」と聞いていたから、もしかしたら伊勢氏は小生の友達の友達の友達なのかもしれない。

それはさておき、表題の論文は韓国を理解する上ですこぶる参考になる。ポイントを転載する――

1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。

しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切報道しなくなった。

朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇である。

日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むのが韓国の特異な歴史観である。

この点を知らずに「日本が心から謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考えているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけである。

韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんでいる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。

<われわれが光復(独立)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあるということができる>

確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続けるのみであった。

そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認されていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認められる可能性はあったろうが、それすらもなかった。

終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝えられている。

「韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わたしは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった」

それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。

呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物には、民族の旗「太極旗」が翻った。

しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しばらく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。

朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名余りの代議員を集めて「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを無視した。

9月8日、米軍が仁川に上陸すると「朝鮮人民共和国」の代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。

9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。

なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか? 一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。

もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲国軍中尉だった。

こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。

「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって戦争に邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立させたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞うはずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが2、30年の信託統治を考えたのも十分理解できる。

1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだした金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛成した。

米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。

結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカから与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は見あたらない。

韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的である。

インドもインドネシアも(日本の協力もありそれぞれ英、蘭という白人宗主国から)自ら独立を勝ち取ったという厳然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要はない。

独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が必要であり、インドもインドネシアも十分な反抗期をもったからこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。

それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それに対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそれを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出して、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の「背骨」にしているのである(注2)。

韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「国定史観」を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわが国が受け入れなければならない理由はない。そのような事をしたら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づくべき歴史学の健全な発展を阻害することになる、云々。

・・・
注1)現在は「公益社団法人国民文化研究会」。定款には「この法人は、日本の長い歴史の中に蓄積された祖先の足跡を学び、国民各層への伝統文化の普及に努めるとともに、国内外で活躍する有為な青年の健全な育成を推進し、もって文化の振興並びに豊かな人間性の涵養に寄与することを目的とする」とある。

伊勢氏は「戦前は東条内閣の言論・経済統制に反対し、戦後は日教組の偏向教育に反対してきた気骨ある団体」と書いている。

注2)「抗日」を国家の「背骨」にしているのは中共も同様で、彼らが皇軍を破ったというのは暴虐な政権に正当性を与えるためのプロパガンダ、大嘘である。

蒋介石秘録にはこうある。

<公式に残る戦史では中国軍と日本軍の戦闘は、小戦闘3万8931、重要戦闘1117、大会戦22の計4万7000回に及ぶが、第八路軍(共産軍)が戦闘に参加したのは平型関(1937年9月、1個師団)と山西南部遊撃戦(1938年春、2個師団)のたった2回にすぎない。このことは、連合軍参謀長ウェデマイヤーの報告によって確認されている通りである。

毛沢東の思想を吹き込まれた第八路軍が、まともに抗日戦を戦うはずがない。彼らは兵力の損耗をおそれて日本軍とは正面から戦わず、政府軍(国民党軍)の力で勝ちとった戦果を横取りし、あたかも彼らが勝ったかのように宣伝することのみ力をそそいだ>(2013/11/19)

<「頂門の一針」から転載>
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