渡部亮次郎
中国の経済発展を導いた「改革・開放の総設計士」!)(トウ)小平(し
ょうへい)氏が92歳で死去したのは1997年2月19日。告別式は行わず、
遺体は解剖後火葬され、胡錦濤(こきんとう)政治局常務委員(現国家
主席)が3月2日、遺灰を空中から東シナ海に投じた。
その11年前の1976年1月に総理(当時)の周恩来が死んだ時も、遺言により火葬され、遺灰は空から撒かれた。したがって2人とも墓は無い。毛沢東のようにはされたくないと思ったに違いない。
毛の権威を必要とした後継グループの決定で、毛の遺体は天安門広場の
記念堂に安置、参観者に公開されている。が、トウ氏もまた、静かに眠
り続けることは難しかった。周恩来の死は毛より先だから、予ねて考え
て居たことを実行したまで。
日本とちがって中国は「死者にムチ打ち、墓を暴く」文化を持っている。
異民族の金に屈して和平を結び、英雄岳飛を獄死させて姦阻の烙印を押
された南宋の秦檜(しんかい)を今なお許さず、その像に対してツバを吐
き続ける中国人。
「過去を水に流す」淡自な日本人からは理解できない。それよりも周恩
来も!)小平も将来、中国が変化すれば自分たちも墓を暴いて糾弾される
ことを察知していたのではないか。
産経新聞北京総局長の伊藤正局長によれば!)(トウ)氏は死去の4日前、卓琳(たくりん)夫人と5人の子供が党中央に書信で伝えたトウ氏の「遺志」の書信は「小平同志は徹底的な唯物主義者であり」「一生を余すところなく祖国と人民にささげてきた」とし、最も質素かつ厳粛な方式で哀悼の意を表すよう要望していた。
毛沢東の権威を必要とした後継グループ(4人組みら)の決定で、毛の遺体は天安門広場の記念堂に安置、参観者に公開されている。私も見てきた。彼の権威を必要としていた4人組が歴史から退場した今、死体をさらされている毛は孤独で哀れである。
毛に従いながら実務家として生涯を貫き、あの文化大革命にも失脚しな
かった周恩来。不倒翁と称された周恩来。ところが2007年3月に日本語版が刊行された『周恩来秘録』によると、周恩来こそは終生、毛沢東に能力を嫉妬され続けた生涯だったと言う。
だからせめて死後は毛と一緒にされたくないとして忽然と空気になった
のである。3度も失脚させられた!)(トウ)も同様だったのだ。そうだと
すれば天安門広場の記念堂に遺体を薬品漬けで安置、参観者に公開され
ている毛こそさらに哀れである。
私が日中平和友好条約の締結交渉で秘書官として園田直外相(故人)に随
行した時、時折、北京市内で一般市民と接触する機会があったが、其処
からは明らかに毛は好きではないが周は大好きと言う吐露が得られた。
こんなこと言って大丈夫?とこっちが心配するぐらいだった。
先の伊藤総局長によれば、家族や関係者の証言から!)(トウ)は、家族
を大事にし部下や仲間の面倒見のいい人柄が浮かび上がる。それは孤高
の革命家、毛沢東とは対照的な常識人の姿だった。
トウ氏の主導で78年に始まった改革・開放は、毛沢東革命になぞらえ、
「第2の革命」と呼ばれる。両者は富強の国家を建設、国民を豊かにす
る理想では一致していたが、毛沢東が、社会矛盾の解決を階級闘争に求
めたのに対し、トウ氏は経済建設こそ先決と考えた。
共産主義化をあせり毛沢東が発動した大躍進政策が失敗、数千万の餓死
者が出た60年代初め、トウ氏は食糧増産のため、部分的な個人生産を農
民に認めた。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」との有名
な言葉はその時のものだ。
改革・開放は「猫論」の復活だった。計画経済と公有制を柱にした社会
主義の原則は次々に破られ、資本主義の原理や手法が導入された。毛沢
東晩年の物質的貧困と精神的抑圧から人々は解き放たれ、中国はみるみ
る活気を回復した。
豊かさと自由−だれもが求める常識人の感覚こそが第2の革命の神髄だ
った。
「富をどう分配するかは大問題だ」「この問題の解決は発展を図るより
困難だ」「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いず
れ問題が起こるだろう」。
トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊か
になる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもた
らした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先
富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。
墓を残さなかった周恩来と!)(トウ)小平。中でも!)(トウ)小平は経
済の改革開放をやれば富は豊かになるが、政治面で共産主義体制を維持
する事は決定的な矛盾であり、その矛盾がやがて中華人民共和国そのも
のを転覆させるかもしれない、その時に墓があれば、オレは暴かれると
読む。
革命児は墓を残すべきでない。!)(トウ)小平、周恩来の方が普通人だ
ったようだ。2007.04・07