2013年12月04日

◆やっぱり変だよ岩波書店(上)

平井 修一


先日、敬意を表している方から「あなたは盛んに岩波書店を叩くけれども、岩波は学術的に大きな貢献をしている」とご指摘を受けた。

たまたま小生は「コミンテルンと日本そしてアジア」というテーマで書きたいなあと資料を探していたら、岩波の「東アジア近現代通史 第5巻 新秩序の模索 1930年代」があった。

図書館で貸していただき、それに所載されている「コミンテルンとアジア」という論文を読んだのだが、なんかおかしいのである。コミンテルンと日本の関係の記述がまったくないのだ。日本共産党が「コミンテルン日本支部」としてソ連の金と指導で生まれたことがまったく書かれていない。

それを書けば、戦後に隠れ共産党員の吉野源三郎らに岩波が乗っ取られたことが明らかになるから、岩波はひと言も触れないのだろうか。そして岩波は共産主義大好きの容共左派的反日屋、GHQ的日本悪玉論の学者の本ばかりを出してきたのではないか。

「岩波は学術的に大きな貢献をしている」と言うけれど、古典などを除けばほとんどがインチキではないのか。小生から見れば日本を貶めよう、共産主義を招きたいという意志が強烈にうかがえるのだ。

上述の岩波の「東アジア近現代通史」には樋口雄一の論文「在日朝鮮人社会の成立と展開」も所載されているが、やはり奇妙というか異常な感じがする。以下ざっと紹介する。

<現在、日本には韓国・朝鮮人58万人余が居住している。韓国併合以前から居住し始めて、併合以降は日本の敗戦まで増加し続け、その大半は農民出身者である。これらの人々は日本による植民地支配下の農業の疲弊という事態の中で急激に増加した。日本敗戦の時点で、朝鮮人人口2500万のうち、500万人が日本、満洲、中国など朝鮮外で暮らさざるを得なくなっていた。

朝鮮は農業国で8割強が農民であり、このうちの8割は自小作を含めた小作農民であった。小作条件は厳しく、収穫の6割前後が小作料や水利料、肥料代などの名目で地主に収奪されていた。

朝鮮総督府が作成した「朝鮮の農業」(1941)では、「農家戸数290万戸のうち、その約8割230万横の大部分は、年年歳歳端境期においては食糧不足を告げ、食を山野に求めて草根木皮を漁り、辛うじて一家の糊口をしのぎつつある」という生活状況にあった>

これだけを見ると韓国併合→農業の疲弊→離農で、日本悪玉論になるのだが、それでは当時の日本の農業の状態はどうだったのか。

<明治30年代に確立した寄生地主制は、第一次世界大戦の戦中から戦後にかけて発展の頂点に達した。高率な小作料による農村の貧困は、都市の工場に安価な労働力を提供し、工業製品の海外競争力を高めたが、反面、国内市場を狭小なものにし、海外市場に依存せざるを得ない構造的な弱点をもたらした。すでに大正期には、地主制の克服が日本の近代産業の発展にとっての重要な課題となっていたのである。

1926(大正15)年5月、農林省は「自作農創設維持補助規則」を公布した。これを受けて、静岡県では同年10月に「静岡県自作農創設維持資金貸付規則」を定め、自作農創設維持事業(自創事業)に着手した。この事業は、地主に小作地を解放・売却させ小作農を自作農化すること、および自作農の小作農化を防ぐことを目的としていた。

1938(昭和13)年、政府は、戦時農業統制政策の一環として農地調整法を定めた。同法には、道府県・市町村等の団体が地主に対して土地の解放を求めることができることなど、自作農創設のための条項が盛り込まれていた。

政府は農地制度を整備し、食糧生産を確保するため、1942年に「皇国農村確立運動促進ニ関スル件」を閣議で決定した。これを受けて、農林省では自創事業の規模を拡充した。1942年の自作農創設維持戸数は30万4406戸であった>(静岡県「戦前の自作農創設事業と戦後の農地改革〜地主制解体への道程〜」)

<戦前の日本における農業は自作農(1942年時点で31.5%)、自小作農(自作兼小作、20.1%)、小自作農(小作兼自作、19.6%)、小作農(28.4%)の農家と地主によって支えられていた。

この中で特に地主と小作農の関係がしばしば問題になった。昭和初期、凶作や経済不況のために、ただでさえ貧しい小作農は一層貧しくなり、小作料の支払いは滞り、地主との間に小作争議が発生した。農業の不安定化は国力の低下を招くので政府は1938年に農業調整法により小作人の権利保護を図ったが、1941年には太平洋戦争に突入し、農業の生産力そのものが壊滅的な打撃を受けた>(慶応大学玉田康成研究会「日本の農業における課題と政策分析」)

日本も農業振興に苦労していたのである。

岩手県によれば大正2年、10年、昭和6年、9年、16年、20年も大半が平年作(当時の平年反収は280kg前後)の半分以下となった。「農村部では稗(ひえ)や蕎麦、大根や干葉を混ぜたカテ飯、ナラの実などの救荒食(きゅうこうしょく)でわずかにその日を糊するような生活」だったという。

特に昭和5年から9年(1930〜1934)にかけて、東北地方を中心として発生した凶作は飢饉に近く、「昭和東北飢饉」といわれるほどで、娘の身売りが相次いだという。二・二六事件(1936年)の一因にはこうした農村の疲弊があったと指摘されている。

こうした事情をバッサリ切り捨てて「日本による植民地支配下の農業の疲弊」というのはおかしくはないか。著者の樋口雄一はNPO法人・高麗博物館(東京・新宿大久保)館長で、そのサイトには「高麗博物館は、秀吉の2度の侵略と近代の植民地支配の罪責を反省し、歴史の事実に真向かい、日本とコリアの和解を目指します」とある。根っからの自虐史観、日本悪者論者なのだ。

2010年に岩波は樋口や大江健三郎などと「韓国併合100年 日韓知識人共同声明」を発表し、「いまや、日本でも新しい正義感の風を受けて、侵略と併合、植民地支配の歴史を根本的に反省する時がきているのである。罪の許しは乞わねばならず、許しはあたえられねばならない。苦痛は癒され、損害は償われなければならない」とアピールしている。

反省しろ、土下座しろというわけだ。異常というか、ほとんど狂気である。こういう極端に偏向している論者を起用しているのが岩波なのである。まともな出版社ではない。(つづく)(2013/12/2)

<「頂門の一針」から転載>

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