2013年12月05日

◆やっぱり変だよ岩波書店(下)

平井 修一


岩波書店は売上などを公表していない。「出版ニュース」の推計では2005年200億円、2011年180億円と低迷している。雑誌「世界」はもとより岩波文庫、岩波新書も書店から姿を消している。楽天ブックスの出版社別売上ランキング(2012年度)で岩波は34位だった。2014年度の定期採用はない。落ち目である。

竹内洋著「革新幻想の戦後史」に「『世界』の時代」の章がある。それによると、敗戦後の日本人の感情は「戦前日本の否定派」と「戦前日本の肯定派」(部分否定含む)に分けられる。さらに否定派は「罪悪・自虐派」と「悔恨・革命派」に、肯定派は「無念・遺恨派」と「復興・再建派」に分かれるのだという。以下は同章の要約。

「悔恨・革命派」は、東京裁判を受け入れて二度と過ちを犯さない(という自虐史観)、反戦・平和、革新・革命に動き、その代表格は共産主義に影響された共産党、社会党などである。「復興・再建派」は経済復興、貧困克服、さらには皇国再建に動き、実務家や保守政治家に見られる姿勢だ。

この「悔恨・革命派」と「復興・再建派」が戦後の二大潮流と言っていいだろう。そして「悔恨・革命派」の雑誌になったのが岩波「世界」だった。

創業者の岩波茂雄は「世界」創刊5か月後の1946年4月に亡くなる。編集長の吉野源三郎は「平和問題懇話会」を組織し、清水幾太郎や丸山真男らの論客を育てていった。

1946年の日本出版協会の調査によると「世界」は、読んでいる雑誌、読みたい雑誌、読ませたい雑誌のいずれでも1位だった。1946年の創刊号(1月号、8万部)の発売された日には氷雨のなか、岩波書店小売部には長い行列ができ、完売したという。インテリ左翼や“進歩的文化人”に受けたのである。

ところが1949年頃から「世界」は勢いを失い「中央公論」に抜かれて3万部にまで落ち込んでいた。小生の生まれた年の1951年10月号の「講和問題特集号」は15万部も出たが、これは例外的だった。

ちなみに大江健三郎もその号を読んでいたようで、こう書いている。

<僕が初めて意識的に「世界」を手にとったのは1951年の夏休みあけのことであった。僕は16歳の高校生で地方に住んでいた。朝鮮戦争が、僕に、日本および日本人の被占領ということについて新しい眼をひらいていた>
(「持続する志」)

吉野は執筆陣から岩波茂雄が評価していたオールドリベラリストを徐々に排除し、吉野カラーの「平和的・進歩的文化人の牙城」として政治的な雑誌(小生から見れば容共左派的反日雑誌)にこれまた徐々に変えていくのだが、前述したように部数は低迷してしまった。従来からの「アカデミックな岩波文化」を評価する読者が政治臭を嫌って離れたのだ。

一方で共産党は党員数も急増し1949年の総選挙では得票率10%で大躍進した。共産党やシンパから見ると「世界」は保守党左派であり、保守派からはソ連のための平和運動と見なされ、「学者先生の平和談義」と侮られる始末だった。

岩波は日教組への食い込みを図ったが当初は相手にもされずに失敗し、その代わりに社会党左派が「世界」を米ソのいずれからも中立だとして評価、そのうちに「平和教育」「平和運動」など平和を唱えることが時流になり、日教組も「世界」を評価するようになってきた。

反対に共産党は、朝鮮戦争で日本が米軍の兵站基地になることを妨害するためにソ連が武装革命を指示し、この路線に走って自滅した。「恐ろしい党」というイメージが蔓延し、読売新聞の共産党支持率調査では1950年2.0%、1952年0.2%である。

一方で社会党は共産党支持者だった人の票をそっくりもらって1952年の得票率は前回の13%から22%に急増した。

こうした社会党躍進の動きから「世界」は復活し、1953年には1年間で読者が倍増した。その年の日本読書新聞の「10月に読んだ雑誌」調査(東大、早大、日女大の学生対象)では、「世界」は東大で1位、早大で3位、日女大で8位である。

「世界」掲載論文は朝日新聞が論壇時評で盛んに取り上げて「お墨付き」を与えたこともあって(今もそう)、東大を頂点とした有名国立大学の学生を中心に愛読されるようになった。

1950年代後半はスターリン批判、日共神話の崩壊などによって共産主義信仰は揺らぎだしたが、それに代わって1960年頃から「市民」という言葉が盛んに登場してくる。「世界」は共産党路線と距離をとっていたがゆえに、市民派サヨクの居場所となり経典になった。「世界」の時代になってきたのである。

1963年の京都大学新聞の読書調査によると月刊誌では1位「世界」50人、2位「文芸春秋」28人、3位「中央公論」15人、4位「前衛」(共産党機関紙)8人だった。「世界」族とか岩波文化人という言葉も生まれたが、共産党支持者には、このゆるい「市民派サヨク」の跋扈を苦々しく思う人もいた。

京都大学の姫岡勤教授は竹内洋ら「世界」族的な学生を前にこう語った。○○とあるのは当時の「世界」族に人気のあった非共産党系知識人である。

「君たちは私のことを物わかりの悪い教授と思っているかもしれないが、私は選挙のときは共産党にしか投票したことがない。○○のようなのは滅茶苦茶ですよ、遊泳術だ。マルクス主義は強力な理論的武器だが、かかわるなら徹底しなきゃ。河上肇(注)先生は偉い」

大学という安全地帯で良心的なポーズだけはとりたいという、「世界」族を代表する市民派サヨクのゆるい立ち位置への批判だろう。

60年安保で反日共系の新左翼が登場し、また池田内閣による「所得倍増政策」を追い風とした消費社会の始まりもあって、「世界」に陰りが見え始めてくる。60年代半ばには3万部ほどになっており、吉野は1965年には編集長を辞めた。

1976年の「世界」30周年記念号には、1967、8年の頃、岩波文化人である歴史学者からこう言われたとの編集委員の述懐がある。

<1970年までで「世界」は廃刊にしたらどうか。そうすれば戦後の一定の役割を果たして幕を下ろすことになるのではないか>

小生が思うに「世界」の時代はとっくに終わっているのだ。(おわり)
(2013/12/3)

注)河上肇(かわかみはじめ、1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者。京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞し、共産主義の実践活動に入る。日本共産党の党員となったため検挙(1933年)され、獄中生活を送る(1937年出獄)。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部のみ翻訳)やコミンテルン三十二年テーゼの翻訳のほか、ベストセラー『貧乏物語』で知られる。 (ウィキ)

<「頂門の一針」から転載>
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