2014年01月12日

◆首相も国会議員も投げ出しの過去

峯 匡孝


細川護煕元首相は過去、旧熊本藩主細川家と五摂家筆頭近衛家の血筋を引く華麗さを背景に「新党ブーム」「政権交代」の火付け役として常に脚光を浴びてきた。その一方で、職を途中で投げ出す癖もあった。

「60歳を区切りにしようと思ってきた。ここが区切りのつけ時と判断し、辞職を決意した」

16年前の平成10年4月、民主党結党を見届けた細川氏は突如、任期途中の衆院議員辞職を表明し、政界から身を引いた。

細川氏の国政入りは、自民党公認で初当選した昭和46年6月の参院選にさかのぼる。当時33歳。だが、自身が政界再編を引き起こす覚悟がすでにあったのか、産経新聞のインタビューにこう答えている。

「自民党自体も破滅すると思いますね。また破滅したっていいと思うんですよ。自民党が分裂するなら分裂したらいいと思う」

細川氏は参院議員を2期務め、大蔵政務次官などを歴任。58年に熊本県知事に転じると、2期8年務め、「日本一づくり運動」など斬新な政策で全国的に“ニューリーダー”としての知名度を高めた。

3選を目指すと思われていたが、「『10年一区切り』を念頭に仕事をやってきた」と不出馬を表明。退任後については「衆院議員とか東京都知事とかの噂があるが、全く白紙の状態」と述べるだけだった。

だが、退任1年余り後の平成4年、新党の結成構想を発表。これが後の新党ブームのさきがけとなる日本新党となる。

「私がソロを弾き始めた。次第にそれが大きなオーケストラになる」

新党結成宣言でこう語った細川氏ら野党は、5年7月の衆院選で自民党を過半数割れに追い込み、8党・会派による非自民連立政権を誕生させた。社会党、新生党、公明党、日本新党などの統一候補として推された細川氏は同年8月、79代首相となった。

政権発足後の産経新聞とフジテレビの共同世論調査で内閣支持率は83・4%に達した。自民党時代から最大の懸案だった政治改革関連法を成立させるなど高い支持を得ていた。

だが、政権は新生党の小沢一郎代表幹事が影響力を握る。細川氏が6年2月に発表した税率7%の「国民福祉税」構想も小沢氏の主導とされ、税率の根拠を「腰だめの数字」としか説明できず、翌日には撤回せざるを得なかった。

細川氏が政権の座を降りざるを得なかったのは、佐川急便から1億円を借入した問題だった。6年の通常国会は、自民党の激しい攻撃に遭い、予算審議に入れない非常事態となった。

「私個人の問題が現実に国会審議の障害になっている。政治の最高責任者の道義的責任は重い」

「政治改革」を標榜していた細川氏だったが、退陣を選んだことで、自身の「政治とカネ」の疑惑を闇に葬り去った。

細川氏はその後、日本新党を解党し、小沢氏らと新進党を結党したが、別の金銭問題が浮上し、突然離党。理由を「今の政治の流れがこれでいいのか一人で考えてみたい」と説明したが、その後もフロムファイブなどを経て民主党の結党を見届け、“定年”を理由に衆院議員を辞した。

細川氏は昭和13年、細川家17代当主、護貞氏の長男として生まれた。母方の祖父は近衛文麿元首相。護貞氏は産経新聞のインタビューを受けた際、当時日本新党代表だった細川氏について問われると、こう笑い飛ばした。

「生臭いことをやっている俗人ですな。『そんな俗っぽいことおやめなさい』と言ったんだが。ハッ、ハッ、ハッ」
産経ニュース 2014.1.10

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック