2014年01月13日

◆「大東亜戦争肯定論」を読む C

平井 修一


島津斉彬が越前藩主松平慶永に与え、また西郷隆盛に教えたという意見書の写しが残っている。その中の一節は興味深い。斉彬もまた雄大な「大陸出撃策」を胸中に潜めていた。彼の秘策によれば、まず日本の諸侯を三手に分けて、

「近畿と中国の大名は支那本土に向かい、九州の諸侯は安南(ベトナム)、咬留巴(インドネシア)、ジャワ、インドに進出、東北奥羽の諸藩は裏手よりまわって山丹(シベリア)、満洲を攻略する。わが薩摩藩は台湾島とその対岸広東福建を占領し、南シナ海を閉鎖して英仏の東漸をくいとめる」

大陸出撃の目的は清国の内政改革だと斉彬は言っている。

「出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。一日も早く清国の政治を改革し、軍備を教えしめ、日本と連合するときは英仏といえども恐るるに足りない。

しかるに清国は版図の広大なるを誇り、驕慢にして日本を見ること属国のごとく、日本より連合を申し出ても耳を傾けるどころではない。ゆえにわれより出撃して、清国を攻撃し、これと結んで欧米諸国の東洋侵略を防ぐをもって上策となす」

もちろん斉彬はこの策を嘉永、安政のころに直ちに実行できると思うほど空想家でも「過激派」でもなかった。

「もしも余が現在公然とかかる説を唱えたら、世人は斉彬が発狂したと思うだろう。まさにそのとおりだ。今、海外出撃の大号令が下ったとしても、命令一下、南シナ海の激浪を乗り切る軍船を結集し得る藩は一つもない。

わが薩摩藩にしてすでに然り、他藩については申すまでもない。ただし、余に十五年の歳月を借せ。薩摩を日本一の富強の国にし、日本統一の基地にしてみせる。日本を西洋諸国並みの富強の国にするためには五十年かかるかもしれぬが、薩摩を日本一の強国にするのには十五年あれば十分だ。まずそこから始める」

と西郷隆盛に教えたと伝えられている。

越前藩主の松平慶永は斉彬の年少の同志であり、その心酔者でもあった。老中堀田正睦宛の次の意見書が斉彬の意見に甚だ似ているのは偶然ではない。

「一、方今の形勢、鎖国いたすべからざる(鎖国してはいけない)義は
具眼の者、瞭然にと存じ奉り候。

一、強兵のもとは富国にあるべきござ候えば、今後、商政をはじめ、貿易の学を開き、有無相通じ、皇国自有の地の利により、宇内(世界)第一の富饒(富国)を致しきことにござ候。

一、居ながら外国の来攻を待ちおり候よりは、我より無数の軍艦を製し、近傍の小邦を兼存(共存)し、互市(貿易)の道繁盛にあいなり候わば、かえって欧州諸国を超越する功業も相立ち、帝国の尊号終に久遠に輝き、虎狼の徒自ら異心消沮いたすべく、これただひたすら請願の次第にござ候」

開国派もまた攘夷派であったのだ。「開国は攘夷のための実力を蓄える手段に他ならなかった」という上山氏の意見に私は同意する。攘夷派の志士たちが後に開国派に簡単に転向したことも理解できるが、攘夷論を捨てたわけではない。

この意見書の中に、維新から大東亜戦争に至る開国日本のコースがほぼ的確に描き出されているという説に異議はないが、私の言う「百年戦争としての東亜戦争」はおそらく弘化年間に始まっていた。

最初は「異船出没」による「斥候戦」であったが、英艦サラマン号の沿海測量、再々度に及ぶ英仏艦隊の琉球入港と上陸、海軍代将ビットルの率いる米艦2隻の浦賀入港は、明らかな「威力偵察」と見なければならぬ。

それより約5年後のアメリカ提督ペルリとロシア提督プチャーチンの「来航」は、ともに完全武装の軍艦4隻(ペルリの最初の予定では12隻)を率い、幕府を強要して和親通商条約を結ばせたのであるから、これを「発砲なき戦争」と解釈することは必ずしもこじつけではなかろう。日本側の出方によっては、いつでも発砲が行われたであろうことは、ペルリ来航に関する諸文献が証明している。

そして薩英戦争、馬関戦争という「局地戦争」で、西洋と日本の砲弾が交わされた。
(つづく)(2014/1/9)

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック