平井 修一
ケネディ家は、歴史が浅く貴族制度のなかった米国にあっては「名門」とされている。「米国版ロイヤルファミリー」と言われることもある。ケネディ家を世界中に知らしめたのはもちろんジョン・F・ケネディ、第35代アメリカ合衆国大統領だ。
ケネディは1917年5月29日にアイルランド系移民で実業家のジョセフ・P・ケネディ・シニアの次男として生まれた。子供のころから病弱だった。
坪野吉孝・早稲田大学大学院客員教授によると、Annals of InternalMedicine(2009年9月1日号)にケネディは「今日でいう自己免疫性多腺性内分泌不全症II型の診断に相当すると推測される」という、ケネディのカルテを精査したレポートがあるという。
「1961年、ケネディが過去のどの大統領よりも若い43歳で大統領に就任して以来、彼は若さと活力の象徴と見なされてきた。しかし実際には、大統領就任前の若い時期から多数の疾病に悩まされており、1947年30歳の時にアジソン病(副腎皮質機能低下症)の診断を受けた。1955年38歳の上院議員の時には、甲状腺機能低下症で入院している」(坪野氏)
この病弱なケネディを支え、世界の頂点に押し上げたのは父親である。父親は禁酒法時代に密造酒の生産・販売などで財をなした。税金がかからないから安いので、この時代に米国人は飲みまくったのだ。父親は商売柄マフィアと関係を持っていたし、金があれば政界での人脈も広まっていく。
父親は巨大な資産をバックにして民主党の大物政治家となり、1932年のフランクリン・ルーズベルトの大統領選出時に財政支援をした見返りに、初代証券取引委員会委員長(1934年)、連邦海事委員会委員長(1936年)、在英アメリカ合衆国大使(1938年〜1940年)の職を得た。
ケネディは1935年に高校を卒業し、兄と同じようにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだが、すぐに体調を崩し「黄疸」の診断を受けて帰国した。兄のいたハーバード大学を避けてプリンストン大学に入学したが、ここでも体調不良で白血病の診断を受け通学できなくなり入院している。
翌年改めてハーバード大学に入学した。ケネディの成績ではハーバード大学入学は不可能だったが、父親の尽力で入学できた。在学中の成績は落第ぎりぎりであった。
1941年春にケネディは陸軍への入隊を試みたが、健康状態を理由に拒絶された。そこで父親が工作しケネディは1941年9月に海軍士官に任官されたが、父親の配慮で戦場に赴くことがないワシントンD.C.の海軍情報局に配属された。
病弱だと性欲が昂進するのかもしれないが、この頃ケネディはインガ・アバドというスウェーデン女性と情事を重ねていた。スウェーデンは中立国であったが、FBIはアバドがヒトラーと会ったことがあるナチス党支持者であることをつきとめスパイではないかと疑ったため、周囲の勧めもあって2人は別れた。
父親は2人が会うことがないよう、1942年7月に海軍長官に頼んでケネディを海上勤務に転勤させた。魚雷艇操縦訓練を受けたケネディは、1943年4月に大日本帝国海軍と対峙していたツラギ島に配属され、艇長としてパトロール魚雷艇を指揮した。
ケネディ率いる魚雷艇PT109は1943年8月1日にソロモン諸島のニュージョージア島西で日本海軍艦隊の輸送業務を妨害すべく他の13艘と出撃したが、深夜になっても敵を発見できず基地に帰還しようとした。
その帰路、8月2日午前2時半にPT109は日本海軍の駆逐艦天霧に不意に遭遇し衝突した。小さな魚雷艇は引き裂かれ乗組員は海に投げ出された。ケネディは負傷した仲間を命綱で結びつけて6キロ泳ぎ、小さな島にたどり着いた。なんとか豪州軍に連絡を取り6日後に救助された。
父親はこのチャンスを見逃さず、ケネディが海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわした。1944年6月17日付けの『ニューヨーカー』誌で記者にケネディの英雄譚を掲載させ、さらに『リーダーズダイジェスト』1944年8月号がその要約を掲載したことでケネディの名前は全米に知られるようになった。
第二次世界大戦終結後の1946年、ケネディは民主党から下院議員補欠選挙に立候補した。父親は長男のジョー・ジュニアを政界入りさせようと計画していたが、ジョー・ジュニアは1944年8月12日に海軍パイロットとして任務中事故死したため、ケネディにその役割が回ってきたのだ。
父の支援により政治資金に困ることはなくケネディは理想主義を語ることができた。精力的な選挙キャンペーンの末に大差で共和党候補を破り、29歳の若さで下院議員になった。
下院3期目の1952年には上院議員選挙に鞍替え出馬し、大差で共和党候補を破り上院議員となった。
兄の代わりに無理矢理担ぎ出されたこともあって、ケネディは政治家としての意欲や自覚に乏しかった。それに加えて無類の女好きだったこともあって、政界入りした後も気に入った女性を口説くことにしか労力を費やさず、政治のことなどは二の次という状態だった
1953年9月12日にフランス系アメリカ人の名門の娘であるジャクリーン・リー・ブーヴィエと結婚した。式のミサの前にはローマ教皇からの祝辞が読み上げられるなど豪華なものだった。
その後2年間に多くの脊柱の手術を受け上院本会議を長期にわたって欠席せざるをえなかった。妻ジャクリーンの勧めもあり手術から回復するまでの間に、8名の上院議員たちの伝記とケネディの政治家としての信念を綴った『勇気ある人々』 (Profiles in Courage) を執筆した。
同書は1956年1月に出版されるとベストセラーとなりピューリツァー賞を授与された。同書は出版当時から、ケネディのスピーチライターを務めていたセオドア・C・ソレンセンが執筆したものだとの噂が囁かれていた。コラムニストのドルー・ピアソンは1957年のABCのテレビ番組で「ケネディはゴーストライターの本で賞をとった」と発言している。
ピューリツァー賞の審査では最終選考になって突然同書が現れたことでも不正が疑われた。ソレンセンは2008年に出版した自伝の中で、自身が『勇気ある人々』の調査、執筆に関わっていたことを認めている。
ケネディは組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する「上院マクレラン委員会」の委員を務めた。これにより最大労組のトラック運転手組合とケネディとの対立が始まったが、委員会の活動によりケネディは知名度を高めた。同時に、妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードとその親友のフランク・シナトラを通じて、マフィアとの関係を構築していった。
1960年1月2日にケネディは大統領候補を選ぶ民主党予備選挙に立候補することを表明した。1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、サミー・デイヴィスJr.、ジュディ・ガーランド、トニー・カーティスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を斉唱し、会場をまわり代議員へケネディへの投票を呼びかけた。
7月13日に行われた1960年民主党全国大会においてケネディは大統領候補に指名された。
大統領選挙において父親の依頼でマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織により、買収や不正な資金調達、複数の州における二重投票など大規模な選挙不正が行われた。
またケネディは、予備選挙中にシナトラから紹介されたシナトラの元恋人で、その後ケネディの愛人になるジュディス・キャンベルを経由して、マフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェストヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した。キャンベルはジアンカーナの元愛人でもあった。
さらにシナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたこともFBIの盗聴により明らかになっている。
選挙終盤にケネディ陣営の大掛かりな不正に気づいた共和党のニクソン(副大統領)陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワー大統領ら「告発を行い泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている。(つづく)(2014/2/1)