平井 修一
第1次安倍内閣の2007年8月23日、産経新聞は「首相、東京裁判のパール判事長男と面会」と報じている。
<【コルカタ=杉本康士】インド訪問中の安倍晋三首相は23日午前(日本時間同日午後)、コルカタ市内のホテルで、極東国際軍事裁判(東京裁判)で判事を務めた故パール判事の長男、プロシャント・パール氏と面会し、東京裁判で被告全員の無罪を主張したパール判事の業績をたたえた。
パール判事は東京裁判に対する意見書で、戦勝国が事後法により敗戦国を裁くことに疑問を提起し、原爆投下を批判した人物。
首相は冒頭、「お父さまは今でも多くの日本人の尊敬を集めている。日印関係の基礎を築かれた一人だ。パール判事のご遺志は日印関係を発展させることだったと思う。今日、日印関係は大変強化されている」と語りかけた。
プロシャント氏は、昭和41年に父親とともに日本を訪れ、安倍首相の祖父である岸信介元首相と面会したことに触れ「岸氏に会う機会を得てから長い期間が過ぎた」と振り返り、岸氏と一緒に収まったモノクロ写真を贈った。「安倍首相が、岸氏と同様に日印関係の発展に尽くされると確信している」と伝えると、首相も「関係発展に全力を尽くしたい」と応じた。
安倍首相は、東京裁判で有罪判決を受けたいわゆる「A級戦犯」について、国会答弁で「国内法的に、戦争犯罪人ではない」と明言している>
パール判事、ラダ・ビノード・パール(1886年1月 - 1967年1月)はインドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。もともと理系(数学)だったが、母親がインド独立のためには息子を法律家にすることが必要だと考えていたそうで、この影響により法学者へ転身したようだ。
1946年5月から開かれた極東国際軍事裁判、いわゆる東京インチキ裁判ではインド代表判事として派遣された。国際法上根拠のない「インチキ裁判」「敗者に対する報復裁判」だと喝破した最初の判事である。
小林よしのり氏はパール判決書を英文、和文ともに精査して「パール真論」を刊行した(平成20/2008)。判決書をほとんど読んでいないでパールや判決書をあれこれ評論する書籍や記事にうんざりしたのが動機のようだ。あとがきにこう書いている。
<今年(2008)は東京裁判終結から60周年にあたる。その年になっても日本人が東京裁判史観を克服できないばかりか、「パールも東京裁判を一部認めていた」などという妄説がまかり通るようになるとは、パールは夢にも思っていなかったであろう。
デマの火は小さいうちに消し止めなければ取り返しのつかないことになることは、慰安婦問題などで経験済みだ。そのため「SAPIO」誌上で半年近くパールについて描き進め、さらに大量に描き下ろしを加えて本書を完成させた>
この「パール真論」をこれから紹介していきたいのだが、法律文書は日本語でも難しい。ましてや英語の判決書の日本語訳だから理解するのがやっかいで、端からそれを紹介すると読者は「猫またぎ」してしまうかもしれない。そこで最終章の「パールの遺言」から紹介していくことにする。びっくりする話にあふれている。
・・・
パールが東京裁判判事の任に就いたのは、自ら望んだからでもなければ、特に選ばれたからでもなかった。当時のインド政府は、独立を見据え「連合国の一員」として東京裁判に判事・検事を送ることだけが重要で、人選には特にこだわっていなかった。
そして候補者複数に断られ、これでは裁判開始に間に合わないという切羽詰まったなか、たまたま判事を引き受けたのがパールだったのである。
なお、東京裁判には当初「インド人検事」もいた。しかし「日本懲罰のために英米と協力することが嫌になって」半年で辞任。インド政府は後任を出さなかった。
パールは開廷から2週間遅れで赴任して、11人の判事の中で国際法の裏付けを持つ者が自分ひとりであるのを知って驚愕し、行われている裁判が茶番劇で、正義の破壊であることを即座に見抜いた。
そこで他の判事たちに「覚書」で自らの意見を配布、それに他の判事が反論し、罵り合いに近い応酬が延々続いた。有形無形の圧力がかかっていたことは間違いなく、身の危険を感じることもあったようだ。
そんな中、インドに残してきた病身の妻、ナリニバーラーの危篤を知らせる電報が届く。パールは一旦インドに帰国、妻の病状の重さを知って打ちのめされた。そして嫌々引き込まれた日本でのゲームにうんざりしていたこともあり、判事を辞して妻のそばにいようと決心した。
ところが妻がそれを受け入れなかった。「あなた自身と日本人のために帰るべきだ」と、パールが日本に戻るまで言い続けたというのだ。
パールは家族に裁判のこと、日本人の境遇への同情、それに耐える不屈の精神に対する賞賛、そして法が彼らの精神を破壊し、彼らの自尊心を奪い取るように堕落させられていることに対する憤りについて話したという。
妻はその話を聞き、重篤な病の身である自分のことよりも、訪れたこともない国にいる見ず知らずの傷ついた人々のことを思い、そこに夫が必要だと悟って送り出したのである。パールは後にこう語った。
「逆に重病の妻から励まされ、いや追い出されたといえるかもしれませんが、私は再び日本にとって返しました。そして裁判終結後、40日ばかりして妻は私のなし終えた仕事に満足して亡くなりました」
パールの孫は、祖母のその行為を「正真正銘の、並外れた愛を示したと常に思っている」と言う。まさにそのとおりだ。パール夫人も日本の大恩人である。かくしてパールは判事席に復帰した。
一体誰が、好き好んで関わったわけでもない不愉快な仕事のために、生きて再び会えるかどうかもわからない妻を残して異国に戻るなんてことができるだろうか?
チンケなプライドや、自分の食い扶持や、論壇内のおつきあいといった私的な理由で、公的な議論を歪めている日本の知識人の体たらくを見るにつけ、パールに対して頭が上がらない思いが増すばかりである。
(つづく) (2014/2/20)