平井 修一
判決書にも「世界連邦」という言葉が出てくるが、世界連邦のもとに各国の主権と軍備を制限し、国際法によって秩序づけるというのがパールの理想だった。原爆の出現で軍備はもはや無意味となってしまったと考え、日本の再軍備に反対した。
これを現在の価値観から左翼的な夢想だと見るのは時代背景を無視した思い上がりである。2発の原爆投下にまで至ってしまった未曾有の世界大戦の直後の時代に、人が恒久平和の理想を思い描くのは当然のことではないか。
しかもパールは、何が平和を破壊したのか、誰がもっとも非難されるべきかという真実を見失うことは決してなかったのである。
1952年、パールは再び来日した。この時の様子は「パール博士 平和の宣言」に詳しい。このときパールは広島で開催された世界連邦アジア会議で講演を行ったが、それは甘い夢想とは無縁のものだった。欧米の代表を目の前に、真っ向からこう言ったのである。
「民族問題あるいは人種問題が、今なお未解決のままに放置されているということは、われわれの断じて容認し得ないところである。しかもこの問題は、西洋諸国において相当責任があるということを私は断言することができる。私は人種問題、民族問題を除外して、永久平和も世界連邦もないと確信している」
さらにパールは原爆投下を強く非難した。
「これは一種の実験として、この日本に投じたのである。これを投下したところの国から真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない。われわれはこうした手合いと再び人道や平和について語り合いたくはないのである」
そして、第一次大戦後に日本が人種平等案を提出し、英米が握りつぶしたことも強い調子で語った(注)。この講演は会議の性格を一変させてしまったという。
その翌年、パールはインドで自らの判決書を出版した。そして、なんとそこに20ページもの原爆犠牲者の写真を付録として載せたのである。パールの孫のサティアブラタ氏は、「これがダドゥ(祖父)の死んだ人への礼拝のやり方であり、生きている人の苦しみ、彼らになされた恐るべき不法行為、そして彼がそれを償うことができないことに対する認め方なのである」と言っている。
パールが最後に来日したのは1966年。13年ぶりの来日で、その間に高度経済成長によって日本の風景は一変した。パールも年老い、病躯をおしての来日だったが、その頭脳はまったく衰えてはいなかった。
途中体調を崩して「無言の講演」を余儀なくされ、希望していた長崎訪問も叶わなかったが、その後やや持ち直し、京都を訪れることができた。その新幹線の車中でこう言っている。
「私が前にきたときは、英語を解する人はほとんどいませんでした。しかし今度は出発前、息子にも日本ではもうどこへ行っても英語で不自由はしないだろうと言ったものでした。ところが来てみると案に相違して英語を話す人は極めて少ない。私はこれを嘆くのではなくて、反対にうれしく思うのです。なぜなら、それだけ日本人が母国語を大事にしていることを証明しているのですから」
パールは京都を大変気に入った。
「できたら余生をこういうところで送りたい。どうか京都を大事にしてください。日本古来の美しい景色をいつまでも残しておいてください。文明は多くの美しいものを失わしめました。京都をそのような外国の悪い影響から守ってください」と熱っぽく語ったという。(つづく)(2014/2/23)