米国防総省外国語学校(DLI)の前身は陸軍情報部日本語学校である。元アメリカ陸軍中尉だった加藤喬さんが詳しく書いておられる。加藤さんは曲折を経て現在、ここの日本語部長である。
陸軍情報部日本語学校については、長く親しくしていただいたコロンビア大学教授で文化人類学学者のハーバート・パッシンさん(故人)から「母校」と聞かされていたので興味を抱いていた。特に戦争を前に英語を禁止した日本、慌てて日本語教育を始めたアメリカの対比としても。
以下、加藤部長の話である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/
DLI。日本人にとっては、因縁のある生い立ちです。また、DLI学生の任務を知ることで、ぼくが用いる、独特の教育方法も浮き彫りになると思います。
太平洋戦争前夜の1941年11月1日、陸軍情報部日本語学校(MilitaryIntelligence Service Language School)が、サンフランシスコのとある古びた格納庫で秘密裏に開校されました。
「まず敵を知る」当時から情報を重視する米軍の姿勢の現れでした。
(12月8日に日米間の戦端が開かれた。真珠湾攻撃)。
最初はジョン・アイソ、シゲヤ・キハラ、アキラ・オオシダ、テツオ・イマガワの4人の二世教授が52人の日系軍人と2人の白人軍人を教えるつつましい船出でした。
開校から数ヵ月後、フランクリン・ルーズベルト大統領が、行政命令(Executive Order)9066号を発令しました。
民主国家アメリカで、なんらの法的手続きも経ず、日系米国市民や在米日本人が強制収容所への移住を余儀なくされた、あの法令です。
多くの二世を抱える陸軍日本語学校も例外ではなく、山深いミネソタ州サベージ基地に移転しなければなりませんでした。
いわれない敵性市民(hostile citizens)の汚名を着せられていた彼らが「名誉挽回」(Redeeming of Honor)にかける気概は悲壮で、寝る時間が惜しい午後10時の消灯後も、毛布のなかで懐中電灯の光を頼りに勉強したと言います。
(パッシン教授の話では、あまりの強行訓練に耐えかねて自殺した人も居たとか)。
配属後、卒業生たちは南方の島々に赴き、玉砕覚悟の日本兵に投降を訴えたり、捕虜となった日本兵の尋問(interrogation)や捕獲書の翻訳、暗号解読に活躍しました。
見通しの悪いジャングルでの任務には日本兵と間違えられ、誤射される危険が付きまといましたが、彼らは怯(ひる)みませんでした。その勇敢さから「ヤンキー サムライ」と呼ばれるようになったのです。
約6000人に達した二世卒業生の活躍は、太平洋戦争終結を2年早め、米軍将兵100万人の命を救ったとも言われています。
戦後、日本に進駐した語学兵のなかには、極東裁判(The International Military Tribunal for the Far East)で通訳を務めた者もいました。
冷戦中は情報機関のエージェントとなって日米の中継ぎをした人物もでたそうです。
(著名な日本研究家、日本文化の紹介者であるドナルド キーン氏やエドワード サイデンステッカー氏を思い浮かべる読者がいるかもしれませんが、彼らは海軍の日本語学校出身です)
以来、この学校は移転と名称変更、教育言語の追加を繰り返し、70年代、国防総省外国語学校(Defense Language Institute Foreign Language Center: DLI)として現在のカリフォルニア州モントレーに落ち着きました。
今日、ここには発足当時のつつましい面影はありません。アメリカの国益に影響する24カ国語を教え、学生総数2500人、教官
750名に達する全米一の語学学校です。しかも同時多発テロを境に、成長の速度を増しています。
DLIは太平洋を見下ろす小高い岡の斜面にあり、全米屈指のゴルフ場や高級住宅街に隣接していますが、それが少しも不自然ではありません。軍の基地というよりは、瀟洒な大学キャンパスか史跡のような趣なのです。
ある意味で、それはどちらとも正しいのです。軍組織ですが、DLIはカリフォルニア州立短大として認められており、高卒の若い兵士はここで修めた語学単位を将来の大学教育に活かすことができる仕組みになっています。また、敷地自体もスペイン統治時代に築かれた要塞(Presidio)で、州の文化遺産に指定されています。
ぼくがここで教鞭をとり始めたのは「砂漠の嵐作戦」(Operation Desert Storm)から帰還後の1991年。陸軍中尉でした。
日本に居所を見出せず渡米したぼくは、移民がアメリカ社会で認められる最短距離のひとつ、つまり、米軍将校になることに活路を見出したのです。
大学に併設された陸軍予備役士官訓練部隊(Reserve Officers' Training Corp: ROTC)に入隊。在学中は一般科目のほか歩兵訓練、指揮官訓練に明け暮れ、卒業時に陸軍少尉(Army Second Lieutenant)に任官(Commission)しました。
中東駐留中にDLI任務のオファーがあったのです。渡米初期から英語が苦手だった者が、皮肉にも米軍で日本語を教えるとは想定外の成り行きでしたが、砂漠生活に辟易としていた自分は即諾しました。
DLIで教えられる言語の盛衰は、アメリカの国益と密接に結びついています。
1941年には日本語だったように、冷戦中はワルシャワ条約機構軍(Warsaw Pact)との衝突が懸念されたため、ロシア語やドイツ語が幅を利かせました。トンキン湾事件を境に伸びたのはベトナム語でした。
いま基地内を見回すとアラビア語、ペルシャ語、中国語、韓国語が主流です。アメリカにとって、厄介が予測される地域の言語が伸びるといっても良いでしょう。
したがって教える側にとっては二律背反の心境です。79年のイラン革命で米国に亡命したイラン人教授に体育館などで顔を合わせると、母国と米国との間で身動きならない苦しい胸のうちを聞かされることもあります。
実際に戦火を交えているイラクやアフガニスタン出身教授の場合はもっと過酷なことでしょう。中国語や韓国語の教官だって、明日は我が身の心境かもしれません。
創設の歴史から見ると意外ですが、この点で日本語学部は際立って違っています。学生には佐官将校(Field Grade Officer)やベテラン下士官(Seasoned NCO)が目立ちます。卒業後も大使館付き武官(Military Attache)を務めたり、自衛隊の幹部学校に留学したり、連絡任務(Liaison Duty)についたりする者が大半です。
現在幅を利かせる4言語と異なり、日本語は「味方の言語」だからです。したがって、学生の大半が通信傍受員(Radio Interceptor)や尋問官(Interrogator)である他の学部とは、おのずと学生の年齢層も違っています。
他学部の学生は多くが高校卒業と同時に入隊した新兵ですが、日本語学部では30代後半の職業軍人(Carrier Officers & Soldiers)も少なくありません。
学歴はないが記憶力に勝る若者と、博士号まで持つ空軍パイロット、陸軍の精鋭「グリーンベレー」、そして陸海空を舞台とする海軍特殊戦隊員(SEAL)などの中高年が机を並べるわけです。
つまり、日本語学部の教官には、この両極端のグループをいかに平等に効率よく教えるかという難題が問われているのです。
実を言えば、生え抜きの職業軍人の方が学生としては扱いにくいこともままあります。彼らの多くが、これまでの人生で大きな失敗を体験したことのないエリートだからです。
これらの完ぺき主義者(Perfectionist)は、まだあどけなさの残る2等兵、1等兵が膨大な漢字や単語を嬉々として消化し、奇怪な文法を操る様に驚愕するのです。
生まれて初めて挫折の苦さを味わい、ストレスと自責に苛(さいな)まれます。生真面目で自分を笑うことのできない者ほど危ないと言えます。
放っておくと、ストレスが昂じて爆発してしまうからです。佐官クラスが激昂したら、一兵卒はその場で萎縮してやる気を喪失してしまいます。だから教官は、それぞれの学生が耐えられる限界を常々感じ取り「力の抜きどころ」を押さえておかなければならないのです。生やさしいことではありません。
大学院や研修会で学べることでもありません。長年、海千山千の学生と接触することで培われる、一種の職人芸だといえるでしょう。どれほど教室環境がデジタル化され、紙の辞書が電子辞書やノートパソコンに取って代わられても、機械が生身の学生に言葉を教えるわけにはいかない所以(ゆえん)です。
DLIでの授業風景を写した写真を下記にアップしました。
http://www.namiki-shobo.co.jp/gntaisiki/guntaiphoto.html
引用転載許可2007・04・16
◎元米陸軍大尉が教える!![軍隊式英会話術]
のバックナンバー・配信停止はこちら
⇒ http://blog.mag2.com/m/log/0000229939/
2007・04・13