2014年03月03日

◆ウクライナ政変はおそらく内戦へ発展

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26(2014)年3月2日(日曜日):通巻第4167号> 

 〜ウクライナは内戦、国家二分裂の危機に直面している
        プーチンのロシアがこのまま引き下がることはあり得ない〜


いまから19年前、筆者はヤルタにいた。黒海が目の前、クリミア半島の南端のリゾートにはリバディア宮殿が残り、博物館となっている。何の? かの「ヤルタ会談」の会場がこのリバディア宮殿である。

スターリンは、この宮殿をルーズベルト大統領の宿舎として配置し、自らはリバディア宮殿を見下ろせる(監視できる)高台の宮殿の泊まり、そしてワイン好きのチャーチルは、そこから車で一時間かかる別の宮殿に泊めた。

スターリンは英米を分断したのである。

そのことは別の場所に書いたので省略するが、ヤルタで歴史的な会談の跡を見学したあと、筆者は列車でヤルタからセバストボリ経由でウクライナの首都キエフへ向かった。

19時間の旅、列車内では、物品販売がなく、仕方がないのでヤルタでお土産に買ったワインを空けて?名も知らぬ田舎の駅でとまると、プラフォームに売りに来ていた農民から赤カブなど、なんでも構わないから酒のつまみになるようなものを買い求め、トイレの水道で洗って、秘匿してきたウィスキーも空けて、寝台車で朝目覚めるとキエフだった。 

キエフは美しい街である。

ちょうどクリントン大統領の訪問前日とかで、街はお祭り気分、要するに欧米の積極的支援に人々は期待していたのだ。

当時、モスクワは悄然と霞み、ウクライナのナショナリズムは高まり、「ロシアなにするものゾ」の勢いがあった。エリツィンは落日を迎えており、回りを囲んだユダヤ人の経済顧問団もつぎつぎと政権を去っていた。

キエフでオペラをみたが、ウクライナ語での上演だった。ロシア語通訳が、これはわかりません、と言った。

ウクライナ独自の通貨も発行していたが圧倒的な偉力は米ドルだった。

1月以来、民主化デモは暴動となり、ヤヌコビッチ大統領の退陣をもとめていた。基本にあるのはEUと組もうとする北西部とロシアに組みするのが得策という南西部の対立である。ウクライナはもともと、この対決構造があった。

かくしてウクライナをめぐるロシアと欧米の対決姿勢、これは新しい「グレート・ゲーム」の始まりである。

シリア問題でロシアに外交得点を奪われた欧米は、その仕返しでもするつもりかソチ五輪開会式をそろってボイコット、鬱憤を晴らした。なにしろとってつけた理由はロシアが同性愛結婚を許さないのは人権無視だ、って。

意趣返しの上塗りがウクライナ政変である。

まるでベン・アリ(チュニジア前大統領)やムバラク(エジプト前大統領)の逃亡劇に似て、ヤヌチェンコ大統領はEU加盟を叫ぶ反政府派のデモに石もて追われる如く逃亡を余儀なくされた。

ロシア特殊部隊に助けられて、クリミアへ逃げ延びたヤヌチェンコ大統領は、「わたしはいまも合法的に大統領職に留まっている」と発言し、対決の構えを見せた。ロシアは軍隊を周辺の派遣し、特殊部隊を送り込んだ。
 
▼ガス・パイプラインという生命線

ウクライナはEUにとっても、ロシアにとっても生命線である。
 
それは農業生産、ロシアの穀倉地帯というだけが理由ではない。ガス・パイプラインである。ガスプロムの敷設したパイプラインはウクライナを通過してEUに輸出されている。

年間1600億立方メートル、EU全体の4分の1の需要をまかなう。

バルト海海底をくぐってドイツへ向かうパイプラインはまだ工事中。南を迂回するパイプラインは仕向地が異なり、なにしろ一番の顧客はドイツである。

スターリンの圧制下、キエフを支配して「大祖国戦争」を戦ってロシアにとってウクライナはコサック兵の補給地、戦場。そして黒海に面したセバストボリ、オデッサがある。

冷戦が終結し、ソ連が解体した折、ウクライナから夥しいユダヤ人が海外へ出た。だが、イスラエルには夢がなく、またオデッサへ舞い戻ったユダヤ人が目立った。

セバストポリは軍港、しかもロシア黒海艦隊の基地である。ウクライナ海軍の基地も併設されている。これはロシアが条約によって2045年まで租借できることになっており、「家賃」は年間9800万ドル。

ただしウクライナのガス輸入代金が代替される。従来、セバストポリの住民はロシアへの帰属を要求してきた。だからウクライナからの分離独立運動は、現地の住民から看れば当然の要求であり、クリミア半島の南西部という軍事的要衝である限り、ロシアが手放すわけはないだろう。

かつてチンギスハーンはこの地を占領し、欧州への軍事的橋頭堡を築いた。やがてロシアは軍事大国となって、クリミア戦争ではオスマン・トルコ帝国からロシアが奪い、またナチスが一時的に占領したほど軍事的攻防が続いた。

黒海の対岸、オデッサは戦艦ポチャムキンの叛乱の舞台としても有名だが、プーシキン、トロツキーの生まれ故郷でもある。露土戦争で、ロシアが奪い、そのご英仏、ナチスなど占領者は変化した。人口100万、とくにユダヤ人が多い街として知られる。

ウクライナは1941年、「ポグロム」と言われるユダヤ人への大虐殺がおこなわれた場所でもあり、また1986年のチェルノブイリ事故という大惨事に襲われたのもウクライナである。

この大地は血と悪霊とで呪われているのだろうか。

▼やはりウクライナは「うっ。暗いな」。

そしてこのグレートゲームの新しい参加者が中国である。

習近平はウクライナを訪問した折、ヤヌコビッチ大統領(中国語では「亜努科維奇」と宛てる)と会見して友好協力条約に調印したばかり(13年12月)。中国はウクライナへの農業、エネルギー分野ばかりか、インフラ建設、ハイテク、航空技術、宇宙開発の分野での協力を謳ったのだ。

むろん、中国の狙いは、ウクライナから購入した空母ヴァリヤーグ(いま中国名は「遼寧」というが)が示唆するように残存する武器技術である。

プーチンはウクライナへ150億ドルの援助を打ちあげ、30億ドルを供与した段階で中断した。

2月26日、ケリー国務長官は「米国は10億ドルを保証する」と発表したが、いずれもウクライナが望む350億ドルにほど遠い。銀行筋は今年だけでも300億ドルの資金ショート、借り換えが発生するだろうと見積もっている。

IMFはウクライナへの金融援助の条件として、消費者へのガス代金補助を取りやめ、緊縮財政の遂行を提示した。ウクライナ国債はCCCの格付けに陥落し、通貨は暴落を続ける。

そしてヤヌコビッチを打倒した野党はと言えば、反ヤヌコビッチでまとまっただけで烏合の衆、右翼ナショナリストから西欧型民主主義までセクトによって価値観は多様であり、前回のオレンジ革命(2004−05)のケースとは似ていない。
 
ウクライナ暴動はヤヌコビッチが強権発動、デモ隊に発砲して多くの死傷者をだしてから流れが変わった。

1917年のサンクトペテルブルグの流血も、天安門事件も、リビアもシリアも、ひとたび悲惨な流血に舞台が暗転すれば、急激に流れが変わる。血の弾圧は西側マスコミに報じられ、ひたすら人道無視、非民主的という大合唱が欧米に鳴り響き、その論調を無批判に転載するしか能のない日本のマスコミによって多くの日本人がヤヌコビッチに批判的となる。

ムバラク亡き後、エジプトは大混乱に陥り、結局は軍事政権が生まれるように、或いはリビアがカダフィ亡き後、無政府状態に陥落したように、或いはサダム亡き後のイラクが米国の望んだ逆方向へ転んだように、アフガニスタンもまた。したがってウクライナが基本構造に南北対立がある以上、迅速な解決は望むべきもない。

ウクライナ政変は、無秩序と混沌、おそらく内戦に発展するだろう。

悲観的な予測ではなくウクライナ南はロシア人が多く、ロシア寄りであり、戦略的にオデッサ、セバストポリを抱え、ロシアがEUに歩み寄るウクライナ北部と妥協するはずがないからである。
 
そうした意味でグレート・ゲームの新しい幕が開けたのである。
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