2014年03月12日

◆震災で身にしみた「一日の貴さ」

新保 祐司


東日本大震災の発生から3年の月日が流れた。しかし、あの当時の不安は、今も記憶にはっきりと残っている。今日は、鎮魂に深く思いを致す日である。

多くの日本人と同じく私も何気なく続いていた日常生活が、突然断ち切られ、ふと人間が生きているということの根柢(こんてい)にある何かを垣間見たような瞬間に襲われた。

このときに向こうからやって来たような感覚をもって感じ取ったことは、極めて貴重な経験であって、試練の中で体得した思考が、これからの日本人および日本の在り方の根本を支えるものとなっていかなければならないであろう。

 ≪戦後日本人の思考を変える≫

それは、長く続いてきた日本人の思考の「戦後的なるもの」を打ち砕くはずであるし、戦後の高度経済成長時代に出来上がってしまった日本人の生活観を変えるものに違いない。それに伴い、日本という国家のかたちも、折しも進行している安全保障環境の苛烈化の中で大きく変更していかなければならなくなっている。

大震災の被害があまりにも大きいので、当初、動揺するしかなかったのだが、その頃、頭をよぎったものの一つに、中原中也の詩集『在りし日の歌』の中の絶唱「春日狂想」があった。愛児の死という悲痛の中で書かれた詩である。

この世の無常という感じに深く襲われていたことも影響したかもしれないが、大震災の惨禍は、普通に生きている人間にも「狂想」に追い込んでいくような衝撃があったのである。その詩の中に「まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな」という心に沁(し)み込んで来るような詩句があった。

その詩の冒頭で、中也は自ら死を思わないではなかったが、「けれどもそれでも、業(?)が深くて、/なほもながらふことともなつたら」と続けて、そのときには「奉仕の気持に、ならなけあならない」と書いている。

そして、2節は「奉仕の気持になりはなつたが、/さて格別の、ことも出来ない」と始まり、次のような独創的な詩句が続く。

 そこで以前(せん)より、本なら熟読。

 そこで以前より、人には丁寧。

 ≪テムポ正しき散歩をなして≫

 麦稈真田(ばっかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み−−

 以前より「丁寧」「熟読」

この「春日狂想」は、中也という悲劇的な人生を歩んだ人間ならではの深い孤独感の表現ではあるが、東日本大震災という衝撃の中では、この詩が持っている悲しみというものが、改めてしみじみと伝わってくるようであった。

大震災「以前より」、人間に対して「丁寧」になるように心がけているつもりであるし、大震災「以前より」、本ならば「熟読」するようになった。この「丁寧」や「熟読」によって、人生の時間が深まったような気がする。

日本は、大震災を契機に成熟の時代に入っていかなければならないが、成熟の時代とは人間の生きている時間感覚が深まっていくことに他ならない。携帯電話やメールのやりとりという交際は、「人には丁寧」の逆であり、本を情報源として速読している人は「本なら熟読」の時間を持っていない。これでは成熟社会の実現など難しいし、明治の文明開化以来の慌ただしい路線をいつまで経っても走り続けることになるであろう。

このところ、内村鑑三の『一日一生』を「熟読」している。1月1日から始まり1年365日分、1日ずつ聖書の1節を引用し、それに関連した内村の文章からの抜粋が掲載されている本である。序文の冒頭に「一日は貴い一生である。これを空費してはならない」と題名の由来が書かれている。

 ≪「多くの実を結ぶべし」≫

私は、これを古い角川文庫版で「熟読」しているが、「熟読」しているという意味は、この本を文字通り、その日の1日分だけ読むということである。文庫の解説の中で、弟子の山本泰次郎が「変化と生気と感興と迫力とが全巻にあふれて、応接にいとまないほどに読者をグングンと引っぱり、一日に数日分、時に十数日分、数十日分をさえ一気に読ませずにはおかない力を持つ。本書の貴い価値であると共に、貴い欠陥でもある」と書いて
いる。

大震災の「以前」、この本を愛読した若い頃は「貴い欠陥」のせいで、私も「一日に数日分、時に十数日分、数十日分をさえ一気に」読んだりしたものであるが、「以前より熟読」となった今では、1日分だけを「テムポ正し」く読んでいる。

次の日のものも読みたいという気も起きてくることがあるが、それを抑えることができるようになった。東日本大震災の衝撃によって、「一日」は「一日」のものを学べば足れり、という「敬虔」さと「一日は貴い一生である」という覚醒が与えられたからである。

ふと3月11日のところを見たらこの日の聖書の引用はヨハネ伝12章24節の「まことにまことに汝(なんじ)らに告ぐ、一粒の麥(むぎ)もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」であった。何か偶然ならざるものを感じさせることであった。

(しんぽ ゆうじ 文芸批評家、都留文科大学教授)
                   産経[正論]2014.3.11

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