渡部亮次郎
待望の第2部が2007年4月17日から始まった。言わずと知れた伊藤正記者による産経新聞の連載「ケ(とう)小平秘録」である。自分が言い出した経済の改革・開放路線を徹底させるための保守派との死力の実態が明らかにされる。
伊藤さんに面識は無いが、先輩古澤襄(のぼる)さんによると、初め共同通信の優れた中国ウオッチャーとして鳴らしたが、産経新聞社に移り、現在、中国総局長(在北京)の地位にある。中国当局の厳しい監視下に置かれながら、中華人民共和国の隠された実態に迫っている。
中国に関する取材、分析においてわが国第一人者と評価している。情報によれば2月14日から3月18日まで32回に亘った第1部は中国のあらゆるインターネットのブログから当局によって削除されたという。
これは伊藤記者の分析と透視がそれだけ問題の核心を突き、当局の恥部をえぐったと言うことである。隠しておきたい真実を暴いたと言うことである。
ケ(とう)小平は3度目の復活を遂げた時、すでにNo.1の実力者だった。共に共産主義革命成就のために戦った毛沢東、周恩来既になく、毛の後継者に祭り上げられた華国鋒は毛を騙し続けた4人組逮捕により影が薄かった。
1978年8月、園田直外相を団長とするわれわれ日中平和友好条約の締結交渉団が北京入りしたのは8日夕刻。私にとっては2度目の北京入り。1回目はNHK記者として日中国交回復交渉の田中角栄総理に同行取材。6年後の今回は外相秘書官としてのものだった。
交渉は2日で事実上妥結、と言うよりも中国の態度が一変し、全面的に日本案を受け入れてきたのだ。それはケ(とう)復活の結果だったのだが、我々はまだそれに気付いていなかった。我が方大使館の情報収集レベルはその程度だった。
それはともかく、3日目の10日午後4時、人民大会堂でケ(とう)副首相と園田外相との会談が約1時間行われた。その翌日、華国鋒との会談。しかし中国側の態度の変化は露骨だった。会談のメンバーに事前登録されていなかった園田外相の個人秘書が会談の部屋に残っても出て行けとは言わなかったのである。
鋭い記者感覚を持った外交官なら、こういうところに問題展開の本質を見るところだが、どうも日本の外交官は発言とか文書を追うことにばかり神経が行って、問題の本質を見逃す。仕草から本心を見抜けぬようでは女性の口説も無理だね。
脱線するが、日本がアセアン(東南アジア諸国連合)の外相会議に初めて招かれた時、会談のテーブルの配置は、アセアン側5カ国(当時)がずらり横に並び、反対側に日本がぽつんと独りという配置になっていた。
これじゃ「口頭試問だ」と私は喚き、結局、園田提案で予め6角形に配置しなおされた。さすが園田外相は海に千年、山に千年住んだ龍にたとえられる海千山千の猛者。「日本の外務大臣、口頭試問を受けに参りました」とアセアン側の冷たさを逆手にとり、満場、爆笑して気分が一挙に和やかになった。
私は記者としては内政、それも自民党担当一筋だったし、外務大臣秘書官と言っても外交は素人。それでも華国鋒に先のないこと、当に(まさに)ケ(とう)時代の到来を実感した。
帰国前日の夜、日本大使館前庭の薄明かりの下、何十人と言う人の蠢きがあったので、大使、これは何ですか、と聞いたら大使は「何でもありません」と答えた。これがやがて国を揺るがす中国残留日本人孤児たちだった。それを何でもありませんとは。園田さんに連れて帰ってもらおうと駆けつけたのだった。
ケ(とう)小平は秋になって生まれて初めて日本を訪れ条約の批准書の交換に立会った。生まれた初めて鮪の刺身も一口食べさせられた。想像もつかない超高速で走る新幹線に乗せられ「後ろから叩かれるようだと」洩らし、4つの現代化の実現の決意を固めた。
4つの現代化。四化と略す。工業、農業、国防、科学技術の近代化。初めは周恩来が唱えたが進まず、ケ(とう)時代になってやっと具体化した。日本から帰ったケ(とう)が翌79年12月に3段階論を打ち出した。
即ち第1段階では国民総生産(GNP)を1980年の2倍にし、第2段階では20世紀末までにGNPを更に2倍にして、人民生活を小康(まずまずの生活)水準に持って行き、第3段階即ち21世紀の中葉までに1人あたりのGNPをさらに4倍にして中進国水準に到達すると言うもの。
その途中で起きたのが1989年6月4日の第2次天安門事件だった。あろうことか人民解放軍が人民に銃を向け伊藤記者の表現では少なくとも数百人のインテリ、学生が殺された。それを命じたのはケ(とう)小平だった。
始まった第2部は引退後、保守派の蠢動で経済の改革・開放が勢いを失いかけているのを見て苛立つケ(とウ)小平が、のちに「南巡講話」と呼ばれる、改革梃入れの旅に出るところから始まった。興味津々(しんしん)である。文中敬称略。2007.04.17