2014年03月29日

◆「南京大虐殺はなかった」を読む@

平井 修一


産経新聞(関西版)が2014年2月6日号でこう報じている。

<松原仁氏は民主党の国会議員ではあるが、拉致問題に熱心に取り組んできたことで知られ、いわゆる南京大虐殺についても国会の場で論じてきたのは有名な話である。例えば、平成19年5月、衆議院外務委員会でこんな発言をしている。

「1937(昭和12)年11月に、国共合作下の(中国)国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置した。…南京戦を挟む1937年の12月1日から翌年の10月24日(までに)300回、毎日のように記者会見をやった。参加した外国人記者、外国公館職員は平均35名。何を言ったかというと、日本軍はけしからぬと。…にもかかわらず、そこで一回も南京で虐殺があったと言っていない。極めて不思議であります。簡単に言えば、なかったから言わなかったのであります…」

これは実に説得力のある話だ。仮にも30万人規模の「南京大虐殺」があったのであれば、戦時中に中華民国はじめ外国で問題にならなかったはずはないのである>

“南京大虐殺”という嘘っぱちについては、山本夏彦翁(故人)が言うように「証拠より論」で、声の大きい方が勝つ。小生はこの件について書かないつもりだったが、たまたまネットで「“南京大虐殺”はなかった」を読み、いつか紹介したいと思うようになった。

この著者の森王琢(もりおう・みがく)氏は昭和12(1937)年12月の南京攻略戦の大隊指揮官であった。平成4(1992)年4月の岡山国民文化懇談会における氏の講演記録をまとめたのがこの本で、副題には「謹んで英霊に捧ぐ」とある。現場の体験者としての証言であり、帝国軍人としての誇りがうかがわれるので小生は第一級の史料だと判断した。何回かに分けて以下紹介する(若干整理した)――

■はじめに

私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。

昭和12(1937)年7月の蘆溝橋事件(ろこうきょうじけん)勃発後、9月に第16師団(京都)に動員下令、私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し、最初は北支に上陸、次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、12月9日に南京の東北地区に進出しました。

途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死のため、私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。

南京は昭和12(1937)年12月13日完全に占領されましたが、私は翌年の1月下旬まで約1ヶ月余り、南京及びその近辺で警備に任じられておりました。

いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、この身体で体験している者であります。

私が今からお話しします事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、本当はどういうものであるかという事を知って理解して頂き、1人でも多くの人に真相を語り伝えて世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。

当時第一線において部下と共に戦い、たくさんの部下を戦死により亡くしました指揮官と致しまして、「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、まことしやかに伝えられ、しかもそれを大部分の日本人が些(いささ)かも疑いを持たないで信じている状態は、何としても我慢の出来ないことなのです。

共に戦った戦友、ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、1人でも多くの人に真実を知って頂きたい、そのために自分が役に立つならば、どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、また下手な文章であっても書いて、それを活字にして残しておかねば
と願っているのであります。

■南京総攻撃の概要

敵の首都、南京を攻撃するために各方面より進撃した各部隊は、昭和12(1937)年12月10日には大体要図のように南京を包囲しておりました(略)。

東からは私の属していました京都の第16師団、東南からは金沢の第9師団、宇都宮の第114師団が真南から、熊本の第6師団は西へ、第13師団の山田支隊は紫金山の北側の揚子江に沿った地帯を前進、さらに揚子江の向こう岸には国崎支隊(旅団長の指揮する第5師団福山第41連隊)と、南京は完全に包囲されていました。

私は京都福知山20連隊の第3大隊を指揮して中山門に向かって攻撃をしたのであります。

当時支那軍は、南京城外に第36、51、58、87、88、101、112各師団の南京保衛軍というのが要塞を作って防備をしておりました。松井石根総司令官は12月9日、飛行機で南京城内外にビラ(和平開城勧告文)を撒き、

「戦争をするにしのびないから、南京を明け渡すならば攻撃はしない。承諾するかしないかについては、12月10日正午中山門城外に軍使を出せば、そこで交渉する」

と勧告をしたのですが、敵は全く回答をしなかった。そこで日本軍は南京総攻撃に踏み切ったわけです。

流石(さすが)に敵の首都でありますから、確かにものすごい激戦でありました。

私の大隊の正面2キロほど先に溝山(こうざん)という小さな山がありましたが、12月10日の正午に攻撃を開始して、溝山に辿り着いたのはもう夕刻でしたが、敵の大部隊を前にして紫金山方面からもの凄い砲撃を受け、全く動けなくなりました。

溝山は雑木林であったのですが、それが砲撃で丸裸になる程で、ここでも損害が続出しました。

南京の総攻撃はそういう状況から始まりまして、11日、12日と、全然動けない状態でした。12日の夜半11時から12時頃と思いますが、突然銃撃が激しくなりました。

私はこれは敵が退却する前兆であると感じまして、1時間もすれば銃撃が止むだろうと思っていましたら、案の定ピタッと止まりました。

すぐ将校斥候(せっこう。偵察)を派遣しましたが、午前2時過ぎにその斥候が帰って、「中山門まで敵なし」との報告を受けましたので、直ちに中山門に突入する決心を致しまして連隊長に報告をし、第三大隊突入のご承認を得ようとしたのであります。

その報告を出すと入れ違いのように連隊長から、「第三大隊はその場に止まり引き続き警戒に任ずべし。連隊は軍旗を奉じて、予備隊を以って中山門に突入する」という命令がありました。

今まで3日間程随分苦戦を重ね、今突入出来るという時にそこに止まっておれと言われた、その時の悔しさは私は一生忘れることが出来ません。

連隊長が軍旗を奉じて中山門に突入・占領されたのは、13日の午前4時頃でした。

他の部隊も、京都の9連隊が中山陵、明孝陵の辺りを攻撃し、津の33連隊は紫金山を攻撃、佐々木支隊(旅団長の指揮する奈良の38連隊その他の砲兵等)は、紫金山の北側から南京最北の獅子山に向かい突進しました。

第9師団は私の師団の左を東南から光華門を占領し、宇都宮師団は雨花台から中華門に、第6師団は西側を北上攻撃、こういう次第で南京は昭和12(1937)年12月13日に陥落したわけであります。(つづく)(2014/3/27)

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