2014年04月27日

◆核が日中開戦を抑止する G

平井 修一


平松茂雄氏の論考「日本核武装の緊急性」を読んでいこう。氏の論はいくあつか読んだが、常に公表された事実を徹底的に検証し、「だからこうすべきだ、しなければこうなるしかない」と実にクールに分析、提言する。経歴を見たら防衛庁防衛研究所研究室長だったのだ。詳しいわけである。
・・・

■核論議から逃げる「保守」

今(2011年)から十数年前に、ある政府機関がアジア情勢に関する研究プロジェクトを組織したことがある。最初の会合のときに、北朝鮮が核開発に着手しているとの情報が流れ(それが)議題となった。

ところが驚いたことに、筆者(平松)を除く10名近いメンバーが北の核開発に疑問ないし否定的な見方をしたばかりか、北朝鮮は間もなく崩壊するというのである。なかでも、当時日本を代表していた、兵器や軍事技術の専門家は、北のように貧しくて後れた国に核兵器なんか作れないと断言した。

そこで筆者は、次のようなことを述べた。

「私は北朝鮮の専門家ではないが、中国の核開発の時にも同じようなことが言われた。それは当時の日本では一般的な見方であったが、中国は核兵器を開発したばかりか、その後、経済成長を遂げるとともに、英国、フランスを追い抜いて米露に次ぐ核大国に成長した。北はその中国の後を追おうとしている。北が中国のように“世界の大国”にはならないとしても、北の核開発をバカにしてはいけない。おそらく10年もあればできるであろう」

ところがその軍事専門家には「あれは北朝鮮の張ったりだ、張ったりに乗ってはダメだ」と厳しくたしなめられたのである。左派は論外として、わが国の右派・保守といわれる研究者や評論家たちには、核兵器に触れることを敬遠する傾向があるようだ。

何年くらい前になるか覚えていないが、CSテレビ局の「日本文化チャンネル桜」から電話があり、「先生は日本の核武装についてどのように考えますか」という質問を受けた。「もちろん日本は核武装すべきです」と即答したところ、「それならば、日本の核武装の是非に関する討論会に出席してほしい」と依頼された。

そこで筆者は「中国の核開発についてならばある程度論じられるが、専門家でないから、公開の席で日本核武装を論じる能力も資格もない」とお断りしたところ、「日本の右寄り・保守の研究者・評論家の中で、正面から日本の核武装を主張する人がほとんどいないので、是非出てほしい」と再度促された。

これが「チャンネル桜」に筆者が出る最初の機会になったのだが、当時わが国では、多くの研究者や評論活動をしている人の中で、正面から「日本の核武装」を論じていた人といえば、筑波大学の中川八洋教授と京都大学の中西輝政教授の名前が上がるだけで、他の方々は「米国の核の傘があるから必要ない」とか、「日本の核武装は日米関係に影響する」と言っては、「日本の核武装」に反対か、または態度を鮮明にすることを避けていたようである。

現在でも「日本の核武装」を正面から論じられる人は依然としてそれほど多くないようである。「広島、長崎の原爆の呪縛」は容易に消えそうにない。だが我が国が直面している「核の脅威」は無視できないところにまで進んできている。

■国家の命運をかけた中国の核開発

筆者(平松)は昭和35年(1960)4月から中国研究を始めた。ちょうど60年安保の時であり、「中ソ対立」が公然化した時期である。「中ソ対立」は様々な要因が複雑に絡み合って生まれ、発展していったが、その重要な要因の一つは中国の核ミサイル兵器開発であった。ソ連は中国の「核の平和利用」に協力したが、核ミサイル兵器開発には協力しなかった。

ソ連は「中国を含む社会主義陣営はソ連の核ミサイル兵器によって守られている」という前提に立って、ソ連以外の国が核ミサイル兵器を開発し保有することを望まなかった。それでは、ソ連以外の社会主義国家はソ連の「言うがまま」になってしまう。

そこで中国は国家の命運をかけて、国家の総力をあげて核兵器とその運搬手段である弾道ミサイルの開発に集中して、始めてから5年後の昭和39年(1964)10月に核爆発実験に成功した。さらにその後の5年間で核弾頭化とその運搬手段である弾道ミサイルの開発に成功した。

昭和45年(1970)4月のことで、この時は射程2000〜3000キロの中距離ミサイルであったが、日本をはじめとする中国周辺諸国とそこにある米軍基地を「人質」に取ることが可能となった。

1960年代の10年間は、ソ連の援助打ち切りに直面し、さらにそれに続く「文化大革命」による政治の混乱と経済の停滞の時代であった。トウ小平による「改革・開放」の時代が始まると、60年代は「不毛の10年」といわれた。だがこの間に中国は核ミサイル兵器を開発し、初歩的な成果を上げた。

中国は1971年10月の国連総会で蒋介石の中華民国に代わって、国連に加盟して常任理事国となった。これは中国が国際社会で活動するうえで重要な場となった。国連加盟の背後には、60年代の10年間における第三世界、特にアフリカの新興諸国に対する毛沢東の地道な働きかけがあった。ちなみに当時日本はアフリカに対してほとんど無関心であった。

このように1960年代の10年間に、中国は核ミサイル兵器を開発し、国連に加盟した。どうして60年代は「不毛の10年間」なのか、それどころか「実のある10年間」であり、その後の発展の基盤を作ったと筆者は見ている。この二つの出来事が中国を「世界の大国」に押し上げたのである。

それらを達成したのは「バカ者」と言われた毛沢東であり、トウ小平ではない。毛沢東は決して「バカな政治指導者」ではなく、「先見性のある優れた政治指導者である」と私は評価しているが、この決定的に重要な出来事を日本人はまったく分かっていない。

話を元に戻す。核弾頭を搭載する中距離弾道ミサイルの次の目標は、当然のことながら米国に届く大陸間弾道ミサイルの開発であったが、これは予想以上に難しかったようである。1970年代中葉にはできるだろうとのペンタゴンの予想に反して、南太平洋のフィジー島近海に大陸間弾道ミサイルが着弾したのは10年後の昭和55年(1980)5月であった。

中国はさらに弾頭の小型・軽量化および複数化、運搬手段の延伸化・精緻化に努め、他方その間宇宙開発に着手し、核ミサイル兵器開発に着手してから50年を経た現在、それほど遠くない将来、宇宙基地を設置し、宇宙からミサイルばかりか、戦争を指揮するところにまで発展しつつある。(つづく)(2014/4/27)

            
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック