2014年04月30日

◆M・サッチャーの登場

渡部 亮次郎


マーガレット・ヒルダ・サッチャー(英語: Margaret Hilda Thatcher,Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日〜 )は、イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任:1979年 ―1990年)。

5月4日は首相就任記念の日である。就任直後、表敬する園田直外務大臣に随行して首相官邸を訪れた。煙草を吸っても灰皿を出してくれないので弱った。それを機に私は禁煙して今日に至っている。

彼女が極端な煙草嫌いであることを知らなかった私が悪かったのであり、その業績は尊敬している。

「ウィキペディア」によれば、首相退任後は1992年から貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から 鉄の女(the Iron Lady)あるいはアッティラ(Attila the Hun)の異名を取った。

首相退任後の2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載した。

それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている。現在は表舞台には姿を見せていない(2013/4/8死去 87歳)。

1925年、リンカンシャー州グランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。

父・アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。

オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究した事がある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。

大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革(所謂サッチャリズム)の源流になった。

下院議員 [編集]1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選。翌1951年には10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「ミルク泥棒」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。

当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。

そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。

同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナーヤ・ズヴェーズダ(現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した。

皮肉にも、この「鉄の女」の呼び名をサッチャー自身も気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。

1979年の選挙ではイギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。

仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった。

選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。こうした経済に対する思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。

1982年には、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣した。

多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。

この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。

イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。

フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。

1984年10月12日保守党党大会開催中のブライトンで、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。

1990年の党首選では苦戦。結局11月22日に英国首相、保守党党首を辞職する意向を表明した。

2012年12月21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院、手術を受けた。

2013年4月8日、脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された。87歳没。

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