2014年05月08日

◆「じゃがたらお春」のこと

渡部 亮次郎


流行歌少年だったので、じゃがたらお春の歌を小学校のころから知っていたが、一体何のことかは知らなかった。

大人になってからはお春の事は忘れていた。77歳になった春、ふと「ウィキペディア」に思いが及んで検索してみた。

じゃがたらお春(じゃがたらおはる、1625年? - 1697年)は、江戸時代初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へと追放されたイタリア人と日本人の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。

「長崎物語」
梅木三郎作詞・佐々木俊一作曲

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

うつす月影 彩玻璃(いろガラス)
父は異国の 人ゆえに
金の十字架 心に抱けど
乙女盛りを あゝ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

坂の長崎 石畳
南京煙火(はなび)に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く
ララ流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

寛永2年(1625年)、ポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリア(洗礼名。日本名不明)との間に生まれる。筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされる。寛永16年(1639年)6月に発布された第五次鎖国令により、同年10月、長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で離日した。

オランダ側の記録では、お春は「ジェロニマ」、お万は「マダレナ」とされている。この時同じ便で日本を離れた者の中には、慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)らと共に日本に漂着したメルキオール・ファン・サントフォールトもいた。

追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。夫はオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したという記録が残されている。

じゃがたら文

追放後にジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られる。「千はやふる、神無月とよ」で始まり 「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれたこの手紙は、 お春の少女期から若年期のいずれかに書かれたものとされ、正徳4年 (1714年)に西川如見が著した『長崎夜話草』第一巻によって初めて紹 介された。

以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価され、お春は江戸幕府により故郷と引き離された悲劇の少女として知られることとなった。

明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「『じゃがたら姫』の『じゃがたら文』を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べているほか、昭和14年(1939年)にはじゃがたら文を下敷きとして作られた。歌謡曲「長崎物語」である。

しかし発表後間もなくより「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としている。

古詩を交えて書かれるなど少女が書いたとしては文章が美麗過ぎ、また「じゃがたら文」と後年お春によって書かれたとされる手紙との差異も著しく、近年では偽作とほぼ結論づけられている。

ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されており、遺産の分配法などが示されているほか、富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっており「じゃがたら文」から想起された悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     
作詞の梅木三郎はペンネームで本職は毎日新聞記者。戦後発足したプロ野球「毎日オリオンズ」の代表を務めた。

作曲の佐々木俊一は福島県の出身。僅か49歳で若死にした。はじめはバンドマンに過ぎなかったが、処女作品が大ヒットするなど作曲には天才的なひらめきがあった。以下「ウィキ」による。

佐々木 俊一(ささき しゅんいち、1907年9月27日 - 1957年1月27日)は戦前・戦後に活躍した作曲家。

福島県双葉郡浪江町出身。本名は佐々木駿一(読みは同じ)東洋音楽学校(現 東京音楽大学)でチェロを学ぶ。同期生に万城目正(「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌などの作曲家)がいた。卒業後は万城目と共に浅草の映画館のオーケストラ・ボックスで 働く。

その後、レコードに興味を持ってからは、作曲家を目指す。レコード会社に就職するためにドラムを稽古し、日本ビクターにドラマーとして入社。バンドの仕事の合間に作曲をしていた。

かくて1932年、作曲家第1作となった「涙の渡り鳥」が大ヒット。同年、小唄勝太郎が歌った「島の娘」が大ヒットし、うぐいす芸者黄金時代を築くきっかけになった等、たちまち佐々木はビクターのヒット・メーカーとなった。

その後は作詞家・佐伯孝夫とタッグを組み、「僕の青春」、「無情の夢」、「燦めく星座」、「新雪」、「明日はお立ちか」、「月よりの使者」、「桑港のチャイナタウン」、「アルプスの牧場」、「高原の駅よ、さようなら」、「野球小僧」が戦前・戦後を通して、相次いでヒットする。

1957年1月27日死去。49歳没。酒と女をこよなく愛し、豪快に生きた生涯だった。1963年にその功績をたたえ、浪江町大堀に地元有志によって「高原の駅よ、さようなら」の譜碑が建立された。

デビュー作であり出世作となった「涙の渡り鳥」は最初にメロディーを作った佐々木が人気作詞家・西條八十にビクターの廊下で直接譜面を渡し、無名の作曲家の作品ながらも佐々木の真摯な態度に西条は作詞を引き受けたという。

「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズは最初から佐々木によって譜面に書かれていたもので、文法的におかしいと注意した西条に、佐々木はこのままにするよう懇願し、結局は西条が折れる形となった。

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