毛馬 一三
もともと、松尾芭蕉の「終焉の地」が大阪・南御堂向かいにあった花屋仁左衛門の離れ座敷であったことや、辞世の句といわれる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が、この座敷の病の床で亡くなる4日前に詠んだものであることを、先般綴った。
芭蕉自身は、大阪で死ぬなどとは夢想だに思わず、早く床払いをして次の旅先長崎に向けて立ちたいたいとの気持であったと、様々な文献に記されている。
だが、思いもよらず病(食中毒と思われる)は悪化、意に反して終焉を迎えるのだが、見守る弟子たちの顔を眺めながら「死」が迫るのを悟ると、幸せな生涯だったと瞑目して、逍遥と死の旅に立ったといわれている。
この芭蕉に関して、「頂門の一針」主宰の渡部亮次郎氏が貴重なご意見を頂いた。
<芭蕉記念館は、深川にある。徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。江戸の発展とともに新たな市街地、農地が必要となり、土地の開発が始まった。大阪からきていた深川八郎右衛門が新田を開発、慶長元年(1573年)深川村と称したのが始まり。
江戸の下町と言えばなんと言っても深川。出発地は都営新宿線森下駅。駅を出て新大橋通りを浜町方面に5分ほど歩いていくと隅田川にかかる橋が見えてくる。これがこの通りの名前になっている新大橋。橋の手前の十字路を左に曲がりしばらく歩いていくと最初の目的地「芭蕉記念館」がある。
芭蕉は延宝8年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住んだ。元禄2年(1689年)3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる奥の細道。岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅。
「芭蕉記念館」には 当時、芭蕉が着ていた袈裟を初め、芭蕉庵を模したほこら、句碑 などがある。記念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川のほとり。川沿いの道を左に少し歩いていくと史跡庭園があり、芭蕉像や芭蕉庵のレリーフがある。 以前来日した李トウキ前台湾総統もご覧になって行った>。
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上記のご意見を読ませて貰った時、芭蕉に纏わる新たな衝撃が脳裏を駆け巡った。
それは、<徳川家康が江戸に入った頃の深川は、ほとんど海だった。(そんな未開発の深川だったが、その深川から)元禄2年3月、曾良を伴い奥の細道の旅に出発した。(略)岐阜大垣までの2400キロの壮大な旅>というくだりである。
江戸から東北、北陸地方を150日間で踏破した2400キロ(600里)の道程を踏破したと言うが、とんでもない距離だ。単純に計算しても、毎日16キロを歩いたことになる。だが当時の旅路は、そんな生易しいものではなかった筈だ。
江戸時代元禄期といっても、 江戸から東北、北陸地方には、のんびり歩き通せる平坦な道が整っていた筈はない。ほとんどが山道・峠道であり、山を越えて行く方法しかなかった。
筆者も以前、福井の江戸時代前からの「鯖街道」を歩いたことある。山道の勾配は天地の差ほどの高低を繰り返し上り下りし、僻々とした記憶がある。山道もない場所は絶壁を横切るしかない。ましてや橋はほとんどなかった。大雨で河が氾濫、足止めを食うことも日常茶飯事だったろう。
ところが、「奥の細道」によると、2人は何と1日に48キロ(12里)を 歩いた日があったという。幾ら昔の人が健脚だったとはいえ、老齢の域の芭蕉(46)と、同行者曾良(41)が、そんな長距離を1日で踏破できたと考えるのは無理な話だ。
つまり芭蕉は、こうした異常な歩き方の速さや、伊賀の上野の生まれであることから「忍者」ではなかったかと論じられてきた。それはまた別の機会に譲るとして、ここで気になるのは、むしろ芭蕉の弟子として名を売り、旅の同伴者であった「曾良」の方だ。
「曾良」のことは、純朴な芭蕉のお供だという印象が強くて、「忍者説」はあまり知られていない。
ところが調べてみると、こんな具合だ。
<曾良は、幕府とのつながりが緊密で、当時日光工事普請を巡ってあった伊達藩と日光奉行の対立を探るための調査を、幕府から曾良に命じられたとされている。その目的と行動を隠すため、芭蕉の歌枕の旅を巧みに利用したというのが、芭蕉研究専門家では語られている。
曾良は、さらに社寺や港の荷役の動きを調べる任務も担っていたようで、北前舟が立ち寄る日本海沿岸の酒田、瀬波、新潟、直江津、出雲崎、金沢、敦賀の各港の貿易状況を丹念に探索して回っている痕跡も分かっている。
その任務行動が、なんと芭蕉の旅の日程と、見事に重なることから、この説には真実性が浮かび上がってくる。きっと幕府からの潤沢支度金を、俳句仲間の豪農や商人のお世話や句会の収入を、困窮していた芭蕉に手渡して、「曾良」の任務を果たしたという説もある>。
こう見てくると、「曾良」という旅の同伴者は、実は巧に芭蕉を取り入って芭蕉の弟子を装い、幕府隠密の任務を隠密裡に遂行していた“忍者”だったという説が、ますます真実味を帯びてくる。
芭蕉の死後、「曾良」は芭蕉の追慕行脚は行わず、すぐに幕府から巡見使九州班員に就任させられている。
芭蕉の終焉の時、曾良の姿はその場になかった。しかも何だか分からない「公務」を理由に、恩師の葬儀にも参列していない。やはり芭蕉に心酔して傍に連れ添った弟子ではなかったのだ。葬儀の場に来る人々の目を避けるため姿を消したのだろう。
正に曾良は、幕府から密命を受けて全国各地を調べて廻るために、芭蕉ににじり寄って随行した「忍者」だったことに間違いはない。
参考・ウィキぺディア (一部加筆して再掲)