2014年05月20日

◆スターリン批判の勇気

渡部 亮次郎


子どもの頃、恐ろしかったのは進駐軍だったが、それより恐ろしかったのはソヴィエトのスターリンだった。政敵や邪魔者を何千万人も殺したから、敗戦国に遣ってきて、私も殺されるかも知れないと思うと、夢にまで出てきた。

長じて高校2年の春3月5日に、そのスターリンの死が公表された。年表で見ると、当時はこれで平和が来ると見たのか、東京証券取引所では、軍需株を中心に暴落し、スターリン暴落と記録されている。

入る大学を間違えてマルクス経済学者・大内兵衛を総長に戴くところへ入ってしまった。だが共産党員学生が幅を利かせる学風に反発、子どもながらに物凄い反共主義者になった。

そうしたところへ3年生の春、3月24日、ソヴィエトで第1書記のニキタ・フルシチョフがスターリンを公然と批判した。話題にするだに恐ろしいスターリンを、死後とは言えど、批判するとは、大変な勇気を持った人もいるものだと感服した。

学内の共産党員学生が小さくなった。そのうちの女子学生が口紅を付け始めたのには笑ってしまった。

1956(昭和31)年3月24日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが政治報告を発表し、スターリン執政期における秘密の一部を暴露し、個人崇拝がを批判した。

1939年、スターリンは次のように述べた。

「社会主義ソ連邦では既に階級は存在せず、抑圧機構としての国家も存在しない」。

しかし、数多くのソ連国民が、シベリアをはじめ各地の政治犯強制収容所で強制労働に従事させられていた。

第2次世界大戦後も、スターリンは国際共産主義運動に君臨していた。1951年、日本共産党が所感派と国際派に分裂したときも、所感派に軍配を上げ(スターリン判決)、国際派は涙を飲むより他になかった。

そのスターリンの死から3年が経過した1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。

特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったキーロフ暗殺に至る陰謀について詳細に明かされた。フルシチョフは、全ソ労評議長として、スターリンに直接仕える立場にあった。

すでに西側の共産主義シンパからソ連とスターリン体制への失望が表明されることはあったが、これにより、スターリンは国際共産主義運動の玉座から決定的に引き摺り下ろされる形となった。

フルシチョフの秘密報告の要旨。

<個人崇拝はマルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわらず、レーニン死後、党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象とした個人崇拝を許すはおろか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。

すでにレーニンはスターリンの指導者としての資質に問題があることを指摘、彼を書記長職から異動させることを提案していた。

だがレーニン死後、スターリンはこうしたレーニンの忠告に耳を傾けるそぶりを見せたため、彼はその後も書記長職に留まった。だが彼はほどなく本性を現し、党生活の規律を無視して専横するに至った。

1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、70パーセントにあたる98名が(主に大粛清の際)処刑された。

党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であった。

スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただしい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。

ヒトラーは権力掌握時からソビエト連邦への攻撃と共産主義の抹殺の意図を隠さなかったにも拘わらず、スターリンはヒトラー・ドイツに対する防衛の準備を怠り、それどころか有能な多くの軍事指導者をその地位から追放、逮捕さらには処刑に追いやった。

「大祖国戦争」(独ソ戦)の初期の戦闘において赤軍が重大な敗退を喫し、兵士、市民に莫大な犠牲者を生じた責任はスターリンにある。

スターリンの専横ぶりは、第2次世界大戦後のソ連と「社会主義兄弟国」(東側諸国)との関係にも悪影響を及ぼした。

その最も際立った重大な例はチトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化で、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったものは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくなる」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂しユーゴを敵対陣営に追いやってしまった。>

ただし、この演説の内容自体はフルシチョフのオリジナルではなく、政敵であるマレンコフが考え出した物であり、フルシチョフがそれを横取りしたということも指摘されている。

また、フルシチョフは自分がスターリンの下でどれだけ忠実に働いたのかを隠していた。大粛清に積極的に加担し、自分の出世に利用した点も考慮する必要があるだろう。

しかし、当時はスターリンに「NO」ということはすなわち「死」を意味する時代であったわけで、一般国民だけでなく党や政府などスターリンに使える立場にあるものまで生命の危険にさらされていただけに、何を思おうがスターリンのやり方に従わざるを得なかった。

数年後、もう一度フルシチョフによるスターリン批判が行われた。この結果スターリンの遺体は撤去され、燃やされた。

時は流れ1987年11月、在任中のゴルバチョフがロシア革命70周年記念式典でスターリンを批判し、レーニンをもスターリン主義の元凶として批判した。

スターリン神話が崩壊したとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視するという恐怖支配の構図はソ連崩壊まで変わらなかった。

フルシチョフのスターリン批判の直後、ハンガリーで民主化を求める市民革命(ハンガリー動乱)が起きたが、ソ連軍が出動し、最終的に鎮圧された。

また、構造改革などの影響で既にスターリン主義とは一定の距離を置いていた西欧の共産党には、スターリン批判は自己に直接影響を及ぼすものとは受け止められなかった。

かつてスターリンが退けた「国際派」が主流となっていた日本共産党も同様で、スターリン批判と共に打ち出された平和共存の学習の推進を訴えただけだった。

スターリン批判は中国(中華人民共和国)との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント)を北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、以降中ソ関係は急速に悪化する事となる。代わりに中国は、アメリカとの関係を修復していった。

朝鮮民主主義人民共和国においては、すでにスターリン型の支配体制を築き上げて、その正統性を人民に要求しつづけていた金日成政権が、中国同様フルシチョフ路線を「修正主義」として強く批判した。

これはソ連との関係が冷却化する契機となった。実際にフルシチョフによる消費財生産重点化政策をきっかけに、金日成派の執権は脅かされていた。一方、延安系とソ連系の幹部がスターリン批判を受けてクーデターを計画したが失敗に終わり、粛清された(8月宗派事件)。

日本において、スターリン批判を重く受け止めたのはトロツキストであった。これと前後して、日本のトロツキストは、新しい前衛党=新左翼の結成に進んだのであった。

1997年のモスクワ放送では『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、内4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送した。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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