毛馬 一三
NPO法人近畿フォーラム21(筆者主宰)の九期講座「蕪村顕彰俳句大学」が、月刊全国誌「俳句界」の「兜カ學の森」と共催して、平成26年9月21日(日)午後1時から「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催する。
会場は、蕪村生誕地に由緒ある毛馬近郊の大阪市立「淀川小学校」で開催。「大阪・毛馬の蕪村俳句の文化を振興継承する為」、前回7期に続いて、現在全国から俳句作品の応募を求めている。
前回7期の「蕪村顕彰全国俳句大会」には、全国から1060句が応募された。
この応募句には著名な選考者から選考して頂き、大阪府知事賞・大阪市長賞・蕪村顕彰俳句大学学長賞、文學の森賞をそれぞれ1名づつ授与した。
今回の9期「蕪村顕彰全国俳句大会」応募の締め切りは、7月31日となっており、優秀作品に新たに「公益法人関西・大阪21世紀協会理事長賞」を加え,5賞を授与する。
ところで、「蕪村顕彰全国俳句大会」を開催することになったのは、江戸時代の三大俳人の内、松尾芭蕉と小林一茶の生誕地は、江戸時代当時から知れ渡っているが、与謝蕪村の生誕地だけが、大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だと、残念ながら知る人は少ない。蕪村を顕彰し、生誕地を広めることが主目的である
さて、蕪村の生誕地がなかなか分からず、やっと「定説」になったのは、戦後直後の事だったそうだ。この事を教えてくれたのは、蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授であった。
奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、キッカケだったという。藤田教授の話によると、下記のようなことだった。
<蕪村は、自分の生誕地のことは、俳人・画人として活躍の舞台だった江戸・京都でも、何故か余り触れたがらず、主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという「記録」すら残されていないという。このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、誰もいなかったのではないかという。
ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、十八首の俳句を添えている。ただ残念なことにその舞台となる淀川毛馬馬堤近が、肝腎の自分の「生誕地」だとは、「春風馬堤曲」には一切触れていない。
しかし、その後願ってもないことが起きた。
蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた「書簡」の添え書きの中に、自分の生誕地が「毛馬村」だと、下記のように初めて綴ったのだ。これが生誕地解明の歴史的契機となった。
<<「春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。即、余が故園(注釈・ふるさと)也。余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。>>
それなら、これが物証となって、江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、そうならなかったのには理由がある。
というのは、江戸時代の発刊諸本には複製が多く、勝手に削除・加筆されることが多々あった。このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、複製なのか、それとも蕪村真筆なのか判定出来ず、結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、生誕地説は宙に浮いたままの状態が続いていたのだ。
ところが、終戦直後、奈良県で終戦直後偶然見つかった、先述の弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」が、やっと「蕪村直筆」だと「認定」されたのである。
これによって「毛馬生誕地」説が確定した。終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ない。しかしこれは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。
しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述に淀川風景の描写や添付十八首と、柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。
以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになった。この経過を考えると、蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村真筆書簡」の存在は、実に大きかった。
これが「認定」されていなかったら、蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。>
こうして、蕪村が大阪生誕俳人と称されるようになってから、七十余年しか経たない。
そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、江戸時代以来、生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされ、これこそが生誕地を知る人が少なかったことに繋がってしまい、誠に慙愧に絶えない。
実は、与謝蕪村の生誕地毛馬村の庄屋(?)の家屋は、明治29年に明治政府の「淀川改修工事」で、国の河川淀川の川底に埋没させられ、今でも何処に生誕地の生家があたったかも判らない。
現在、毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地碑」があるが、この碑の場所が生誕地ではなく、その碑の眼下に流れる「淀川川底の何処かの場所」が生誕地ということになる。
このために、今でも地元大阪ですら「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民は多い。次世代を担う児童生徒の教科書にも掲載されていないことを考えると、生誕地のことを知らない人が多いことはことも当然のことだろう。
だから、われわれ講座「蕪村顕彰俳句大学」では、文學の森と共催して、2年後の2016年に「蕪村生誕300年祭」を開催し、蕪村生誕地高揚と後世への伝承、そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。
序でながら、筆者は藤田教授に下記の質問をした。
「蕪村は、淀川を下って源八橋から船を降り、浪速の弟子の下に吟行の往き来きしていましたが、「春風馬堤曲」に記述しているように、それほど生誕地の毛馬に望郷の念があったのであれば、源八橋の極く近郊にあった毛馬村生家に立ち寄ってはいないのは、何故なのでしょうか?その学説はありませんか?」
藤田教授の答えは次のようだった。
<それを証明する「学説」はありませんね。恐らく立ち寄ってはいないでしょう。蕪村が心秘めた深い望郷にも拘わらず、立ち寄ら無かったのは、それ超える幼少の頃の特別な事情があったのでしょう>
ということだった。
となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったのに、立ち寄りたくない強烈な想いがあったのだろうという推察が浮上してくる。
恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、私生児だった蕪村は、実家も引き付けず、家人たちからも極めつけの「いじめ」を受けたのだろう。そのために十七・八歳で家を家を出ざるを得なかったのではないか。否、嫌気がさして決意して飛び出したのだろう。
そのことが「ひと一倍の望郷の念はあっても、いじめ抜かれた生家には生涯立ち寄りたくなかった」のではないだろうか。
最後になりましたが、どうか、2年後の「蕪村生誕300年祭記念行事」に、是非共 皆様のご賛同とご支援を伏してお願い申し上げます。(了)
◆「蕪村顕彰俳句大学」ホームページアドレス
http://www.buson-kensho-u.com/