平井 修一
(承前)松井茂氏の論考「世界軍事学講座」から。
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中国は治乱興亡3000年の歴史を持つ国である。それだけに兵乱や遠征、侵略の数も群を抜いて多く、独自の兵法が社会に根付いている。中国の兵法の古典としては「六韜」(りくとう)「三略」「孫子」「呉子」などいろいろあるが、もっとも有名なのが「孫子」だろう。「孫子」は民族の叡智の粋が盛られた兵書、という評もある。
「孫子」は単なる戦のかけひきの本ではない。むしろ治乱興亡のかけひきの根本を説いている。よって、欧米の兵学書のように、敵の軍事力をいかに破砕するかではなく、勝つ条件を整えるための政治的基盤を作ることに重きが置かれている。且つ、実際に戦闘をしないで勝利することを最良としている。
また「謀攻篇」や「用間篇」(スパイを用いる)が設けられており、諜報・謀略を重んじている。
中国を含む東洋の戦いにおいては、西洋と異なり、相手の軍事力の破砕よりも、政治あるいは謀略を駆使して、切り崩しや勢力バランスを変えることが大きな役割を果たしてきた。その伝統は今日に及んでいる。
中国流の兵法は、こうした政治・謀略性に重点が置かれ、さらに中国大陸の広大さ、人口の多さを利点としてきた。
蒋介石の撤退戦略は日本軍を広大な大陸に引き入れ、長期戦の泥沼に陥れた。毛沢東も大陸の巨大な空間を利用した「長征」によって息を吹き返し、ついに天下を握った。
毛沢東の下で戦われた対外戦争である朝鮮戦争では、旧式装備ながら「人海戦術」を展開して、世界最強の米軍をしばしば苦境に陥れた。「人海戦術」への恐怖は未だに米軍の一部に残っているほどである。世界が毛沢東の「人民戦争論」と中国の底力に注目した。
その一方で毛沢東らは「人民戦争」にのみ依拠することなく、核戦力の建設に乗り出した。1964年に初の原爆実験に成功し、3年後には水爆実験も成功させている。核兵器の運搬手段であるミサイル開発も行っている。今日も核戦力の充実にいささかも怠りない。
通常戦力の分野でも中国は大きく変化しはじめた。60年代の一連の中ソ国境紛争で、中国はソ連軍の強大な火力と機甲力の威力を思い知らされた。そのソ連が70年代に中ソ国境に兵力を増強してきたことは、中国にとってまさに悪夢だった。
1972年2月、カンボジア問題で対立したベトナムとの間で中越戦争が起こった。旧式戦車と歩兵を主力とした中国軍は悪戦苦闘し、大損害をこうむった。
当時の人民解放軍総参謀長はトウ小平であった。中ソ関係の悪化、中越戦争での苦戦は、軍の近代化路線をトウ小平に採択させた。「人民戦争」では応じきれない現実が目の前に現れたのである。かくして軍の近代化が本格的に開始された。
さらに「人民戦争」では対処できない状況が次々と生まれた。まず、経済開放政策による沿岸部の経済特区の出現である。これは当然ながら海からの攻撃に弱い。最早経済特区を捨てて、敵を大陸内部に引き入れて「人民戦争」を展開するわけにはいかなくなったのである。
そこで、中国経済の根幹をなす経済特区を守るために、沖合300カイリまでを防衛する「海上多層縦深防御戦略」が90年代初めに策定された。この海上防衛ラインをさらに外側に広げるため、原子力潜水艦隊を拡充し、正規型航空母艦を持ちたいというのが中国軍部の本音である。
また朝鮮半島においては、唐や明の時代、出兵して中国本土を守るという「前方防衛策」が探られてきた。朝鮮戦争において建国間もない中共が出兵したのも、スターリンの要請もさることながら、こうした「前方防衛策」を受け継ぐものであった。これは今日でも同様である。
以上のように、工業化社会に脱皮しつつある中国は、もはや「人民戦争」ではなく「前方防衛策」に転じざるを得ない。そのための軍の近代化である。さらに仮想敵米国の心臓部を直接たたく戦力を保持するために93年秋から核実験を再開している。こうした中国の変貌には注意を要する。
孫子の次の言葉は永遠の生命を持つ。
「彼を知り己を知れば百戦して危うからず。彼を知らずして己を知れば一勝一敗す。彼を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず敗れる」(以上)
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以上で松井氏の論考を終える。中共の政治・軍事を正しく知り、正しく恐れ、核武装を含めて正しく対策を用意することが大事である。(2014/6/5)
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