松本 浩史
安倍晋三首相にとって、北朝鮮による日本人拉致問題の解決は、政治家としてのライフワークである。日本の主権が侵害されたのだから、当たり前といってよい。それだから、外務省局長級による政府間協議で合意した拉致の再調査に関し、その実効性の担保などさまざま心許なさがあるけれど、歯車を回す決断をしたのだろう。けれども、いかにも危うい。
拉致問題にかかわる合意では、再調査は、北朝鮮が拉致した可能性のあるすべての日本人を対象に行われるとのこと。つまりは、政府が認定している拉致被害者17人(うち5人は帰国)、拉致の疑いのある特定失踪者約470人を含め、可能性を排除できない860人が俎上に載せられるわけだ。
再調査の結果、政府が認定していなかった被害者が出てくる可能性もある。
もっとも、再調査がどれほど信頼に足る内容になるのか、おぼつかない。北朝鮮は、新設する「特別調査委員会」に国内のすべての機関を調査できる権限を持たせ、調査内容を日本側に随時、報告するという。けれども、拉致問題で北朝鮮がこれまでどんな調査をしてきたか。
平成14年の日朝首脳会議で、「死亡」「不明」とされた10人ついて、多くの死因は不自然であり、提供された遺骨は、日本側の鑑定の結果、別人というケースもあった。
なぜ、協議を通し、日本側は、調査委に身元特定の技術が高い日本の警察庁職員を入れるよう求めなかったのか。
ある政府関係者は外務省が主導して、首相がこれに乗ったと解説する。外務省の言い分は、こんな趣旨だという。「日本の警察を入れて全面解決に至らなければ、拉致問題は終結してしまう。再々調査への道が閉ざされる」。まるで再調査の限界を見越し、それ以降に期待を寄せているような考え方である。
これに関連し、菅義偉官房長官は、合意事項に「日本側関係者による北朝鮮滞在」「関係者との面談」などが明記されていることから、再調査の内容を検証するため、警察庁職員らを派遣する考えを示している。
しかし、そもそも北朝鮮がどこまで誠実に再調査をするのか不透明な上、きちんと資料を開示するかも分からない。やはり調査委に日本政府関係者が名前を連ねるよう、強硬に求めるべきだった。
再調査に着手した時点で、日本が独自に科している人的往来の規制などを解除するのもいかがか。菅氏は、北朝鮮に対し、再調査の結果を1年以内に示すよう求める方針を表明。
ただ、対象者が多いことから「そんな短期間で結果は出せないだろう」(自民党幹部)との見方も強い。案の定、同党からは「食い逃げされないか」などと警戒する声も出ている。
北朝鮮は、すべてとは言わず、ある程度見込んだ実利を手にすれば、再調査の合意などなきがごとき態度に豹変(ひょうへん)しかねない国柄である。
一方で、伝えられるところでは、北朝鮮が再調査に応じたのは、後ろ盾だった中国との関係がギクシャクしたことで、国際的な孤立状態に陥り、ここから抜け出す突破口にしたい思惑があるという。
来年、朝鮮労働党創立70周年を控えているため、国内経済の立て直しを視野に、日本から経済援助を引き出す狙いもささやかれる。
それだから、政府間協議には、金正恩第1書記が直轄する情報機関「国家安全保衛部」の当局者が出席していた。拉致被害者は、保衛部の監視下にあるとも言われ、「協議にかける北朝鮮の真剣さが伝わる」(別の政府関係者)。
気がかりなのは、よしんば、拉致被害者の幾人かが無事に帰国できれば、「解決ムード」は高まるだろう。けれども、多くの被害者の再調査がなおざりにされ、帰国した「成果」ばかりが前面に出ても、それは「真の解決」ではない。
再調査の枠組みにいささか腑に落ちないことがあるし、北朝鮮が一部の拉致被害者の帰国をもって、幕引きを図りかねない懸念がある。けれど、首相はかねて、「すべての拉致被害者の帰国があって初めて解決となる」との考えを表明している。くれぐれも肝に銘じてもらいたい。焦りは禁物である。産経【松本浩史の政界走り書き】2014.6.8