平井 修一
(承前)松島悠佐氏の論考「戦争の教科書」から。
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イラク戦争(2003〜2010)開始に際して国際間でも国内でも様々な議論があり、異なる主張があった。戦争に踏み切るかどうかは、イラクが大量破壊兵器を開発しているか否かが、表向きの判断基準になっていたが、実際にはフセイン大統領の独裁体制を許容するかどうかが決め手であった。
フセインが少数派のシーア派や少数民族クルド人に対して弾圧的な圧政を行っていたことは事実であり、これを排除しなければその状態が存続し、非人道的な迫害を受ける人々は救われなかっただろう。
戦争に訴えるという荒療治が良かったか悪かったかは、しばらくして歴史の判断に委ねなければならないが、とにかく戦争は悪だと主張する人たちの意見には、戦争の悲惨さを強調するあまりに、戦争になっていない平素の状態の中で迫害を受けている悲惨な事態には目を閉ざしてしまうことがあり、戦争という事象だけに反対する感傷的な意見が多い。
フセインの専制独裁的な国家運営を黙認して、戦争を躊躇していたとしたら、北朝鮮が今やっている拉致や不法工作活動、あるいは自国民を餓死させたり多数の国外脱出者を生むような異常な国家運営に対しても国際的な懲罰はないと理解し、自信を深め、今以上に不法な行動をとり続けるだろう。
そのような非合法な行動がもたらす自国民の悲惨さや、周辺に及ぼす影響を考えるとき、それに対して断固とした対応をとらず、結果として専制独裁体制が存続することになったら、果してそれが平和的な解決と言えるのだろうか。
平和を維持するためには時に戦争も避けては通れない道なのである。
目下わが国に異常な脅威を与えている国が北朝鮮(平井:および中共)だが、この脅威を取り除くにはどうすればよいか。金体制(平井:および中共)が現行の異常な政治を改めて民主国家へ移行するのが最良だが、これまでの経緯を見ればそれは無理だろう。今のやり方を続けるのであれば体制を潰すしか方法はないだろう。
イラク戦争開始に対するブッシュ大統領の判断を批判する人も多いが、フセイン体制を倒すにはこれしかなかっただろう。一体、フセイン体制が存続していた方が良いのか、なくなった方が良いのかの判断は、世界に自由な社会を広めることが大事だと考えている普通の民主主義国家から見れば、後者に決まっているだろう。
この力の行使によって、リビアもイランも動いてきた。やがて北朝鮮(平井:および中共)も動いてくることを期待したい。脅威は「平和的に」と言っているだけでは解決できない。平和を守るために力が必要な時がある。それが戦争だ。
「戦争は力による政治の継続」は、ドイツの戦略家クラウゼヴィッツの言葉である。
「国家はそれぞれ自国の繁栄と国益の追求に努め、それが互いにぶつかり合い、争いに発展することも多く、さらに、戦争にまで突き進むこともある。だが、誰もが、悲惨な結果を生む戦争は努めて避けて平和裏に解決しようと努力している」
政治や外交というのは、共存共栄のためにお互いの妥協点を見つける努力に他ならないが、時にはどうしても話し合いでは解決できず、力の行使も考えなければならない場合もある。平和的な交渉で進める政治・外交とは形は違うが、戦争もひとつの政治の手法との考えである。
わが国では今、竹島の領有権が韓国との間で問題になっているが、これについて考えてみると、韓国は領有権を主張すると同時に警備兵を配置し、機銃まで据えて、近づく船舶には威嚇射撃をして退去を強制している。それに対しわが国は、同じく領有権を主張し、韓国の一方的な占拠に対して抗議はするものの、実行措置は行っていない。
この状態がすでに30年以上も続いており、韓国では船着き場を作って、最近では一般市民の観光訪問まで許可している。それでもわが国は、相手を刺激しないようにとの配慮から、抗議以外の方法はとらず、それが大人の政治判断だとの考え方をしている。
しかしこのままでは、竹島を日本の領土として取り返すことは難しい。日本の領有権を回復するためには、武力による対応も辞さぬ決意で臨まなければならないが、わが国としてそのような手法を選択するのを好まない。だが、好むと好まざるとにかかわらず、それも政治や外交上の一つの手法なのである。
わが国では、政治的判断とか政治的決着などとの表現をよく使うが、これは多分に、ことを荒立てずに、なんとかうまくまとめることに使う場合が多い。だが、クラウゼヴィッツの理念からすれば、力による解決を図ることも、形を変えた政治や外交の継続なのである。(注)(つづく)
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注)小生が愛読する「西郷南洲翁遺訓集」より。
第十七ケ条
正道を踏み、国を以って斃(たお)るの精神無くば、外国交際は全(まったか)る可(べから)ず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲(まげ)て彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却(かえっ)て破れ、終に彼の制を受くるに至らん。
<正しい道を踏み、国を賭けて、倒れてもやるという精神が無いと外国との交際はこれを全うすることは出来ない。外国の強大なことに萎縮し、ただ円満にことを納める事を主として、自国の真意を曲げてまで外国の言うままに従う事は、軽蔑を受け、親しい交わりをするつもりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう>
第十八ケ条
南洲翁が談(だん)国事に及びし時、慨然として申されけるは、国の凌辱せらるるに当たりては、縦令(たとえ)国を以て斃るとも、正道を践(ふ)み、義を尽くすは政府の本務也。然かるに平日、金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭(こうべ)を一処に集め、唯(ただ)目前の苟安(こうあん)を謀るのみ、戦(いくさ)の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也。
<南洲翁の話が国の事に及んだとき、大変に嘆いて言われるには、国が外国からはずかしめを受けるような事があったら、たとえ国が倒れようとも、正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の努めである。
しかるに、ふだん金銭、穀物、財政のことを議論するのを聞いていると、何という英雄豪傑かと思われるようであるが、実際に血の出ることに臨むと頭を一カ所に集め、ただ目の前のきやすめだけを謀るばかりである。
戦の一字を恐れ、政府の任務をおとすような事があったら、商法支配所、と言うようなもので政府ではないというべきである>(2014/6/17)