2014年07月05日

◆プライバシー訴訟事始

渡部 亮次郎


プライバシーとは、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいうと言われなくとも今やプライバシーは日本語同然、誰知らぬ者の無い「日本語」だ。

自決した作家三島由紀夫が、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告であり、日本人が、人間に、そんな権利があることを知った始まりだった。それが1961(昭和36)年3月15日に訴えられたプライバシー裁判だった。

英単語「Privacy」をカタカナ表記したもので、「私事権」と訳されることもある。

日本国憲法には明文規定はないが、第13条(個人の尊重)によって保障されると解されている。日本では「宴のあと」事件の際にプライバシーという言葉が使われたことから注目され、人格権として認められるようになった。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社の新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起したのである。

有田八郎(ありた はちろう、1884年9月21日―1965年3月4日)は新潟県佐渡郡真野町(現在の佐渡市)出身の男性外交官、政治家である。息子圭輔も外交官になり園田直外相当時(1972年から74年ごろ)は父同様、外務事務次官だった。

八郎は山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は戦前と対照的に革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

1909年:東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省に入省。1927年:田中義一首相兼外相のもとで外務省アジア局長に就任。1930年:駐オーストリア公使。1932年:外務次官。

1936年:廣田内閣に外務大臣として入閣。日独防共協定を締結。
1938年:第1次近衛改造内閣の外相、貴族院勅選議員。
1939年:平沼内閣の外相。
1940年:米内内閣の外相。

1953年:故郷の旧新潟1区から衆議院議員選挙に出馬して当選。1955年:東京都知事選に革新統一候補として出馬したが落選。1959年:都知事選に再び革新統一候補として挑戦するが落選。1961年:三島由紀夫の「宴のあと」をプライバシー侵害として訴える
(『宴のあと』裁判、有田の死後和解)。

裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
                       『ウィキペディア』
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