2014年08月05日

◆「核」が日中開戦を抑止する(60)

平井 修一


このシリーズが60回を迎えたなんて信じられない。それだけ日中と世界の動きが激しく、刻一刻と情勢が変わっているということだ。年初にロシアと中共が世界中から総スカンを食うことになるとは、プーチンも習近平を含めて誰も想像していなかったのではないか。まさに激動の時代だ。

60回を機に、そもそも核兵器とはなんなのかについて考察したい。小生は高校物理の授業で「放物線」に頓挫してから、もっぱら文系を選択したので、核そのものが分かっていない。

ウィキと小都元(おづはじめ)著「核兵器事典」をチェックしたが、原子とは何かという基礎知識がないからチンプンカンプンだ。正確かつ理論的に説明できないが、要はこういうことのようである。

1930年代、「中性子による原子核の分裂が連鎖的に行われれば、莫大なエネルギーが放出される」という仮説が立てられていた。1939年にウランによる核分裂の連鎖反応が実験実証されると、核エネルギーを利用するために各国で原子炉の開発が始まった。

核分裂とは、核分裂性物質(ウランやプルトニウムなど)の原子は、中性子を吸収すると、より軽い原子に分裂し、平均2〜3個の中性子を放出する。この中性子が他の原子の分裂を誘発していく。核分裂反応が別の核分裂反応を引き起こすのだ(連鎖反応)。

十分に多量(臨界量以上)の核分裂性物質の中で、制御されない状態の下で連鎖反応が起きると、エネルギーが短時間(1000万分の1秒から100万分の1秒)で爆発的に放出される(通常火薬爆発の1000万倍)。これが核兵器の動作原理になっている。

連鎖反応は十分に制御された状態ではエネルギー源としても用いられる(原発などの原子炉)。

核の原理はおおよそ以上のようなものだろう。

核兵器は、核分裂の連鎖反応、または核融合反応で放出される膨大なエネルギーを利用して、爆風、熱放射、放射線効果などの作用を破壊に用いる兵器の総称だ。

原子爆弾、水素爆弾、中性子爆弾等の核爆弾(核弾頭)とそれを運搬する運搬兵器で構成されている。

核兵器は生物兵器、化学兵器と合わせてNBC兵器(又はABC兵器)と呼ばれる大量破壊兵器である。

核兵器は、人類が開発した最も強力な兵器の一つであり、その爆発は一発で都市を壊滅させる事も可能である。そのような威力ゆえに、20世紀後半に配備数が増えるにつれ核戦争の脅威が想定されるようになり、単なる兵器としてだけではなく、国家の命運、人類の存亡にも影響するものとして、開発・配備への動きのみならず、規制・廃棄の動きなど様々な議論の対象となってきた。

また、実戦使用されたのが第二次世界大戦における2発(広島・長崎)のみであり、使用ではなく、主に配備による抑止力として、その意義が評価されている側面を持つ。

核兵器は、核分裂を主とする「原子爆弾」と、核融合を主とする「水素爆弾」の大きく二つに分類される。原子爆弾は大威力化に限界があり、水素爆弾の方が最大威力は大きくすることができる。

また、兵器の形態としても、開発当初は大型航空爆弾のみであったが、プルトニウム型の場合、高度な製造技術を必要とする反面、小型化が可能でありミサイルや魚雷の弾頭、砲弾までも様々なものが開発されている。

<核兵器はそれが出現してから最早60年が経過する。この間に核兵器開発の知識は広く世界に広がり、その原理についてはほとんどオープンになり秘密はない。しかしこれを実際に兵器にすることはきわめて困難であり、サイエンスとエンジニアリング(注1)には大きなギャップがあることが分かる。

よく原子爆弾は学生にでも作れるとの発言があるが、過去数十年にわたる米ソその他の国家が国力を尽くして開発してきたものが簡単にできるわけがない。

「核物質の獲得が困難」「核兵器の組み立てが困難」「核兵器の実験が困難」などにより、国家事業にでもしない限り開発は不可能であろう(注2)>

石川島播磨重工出身の小都氏はそう書いているが、確かにその通りだろう。(つづく)

              ・・・

注1)エンジニアリング:最適解を求め、産業社会に存在する技術の中から選び、それを実現する一連の活動。

注2)日本の原爆開発(原子力教育を考える会」から):日本においては、1941年4月に陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が、理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼したことで、原爆開発がスタートする。理研には当時日本初のサイクロトロン(磁極直径26インチ)が設置されており、日本の原子核物理学の実験研究の中心地であった。原爆研究は当時日本の指導的物理学者であり、朝永振一郎らを育てた仁科芳雄が担当した。

仁科はそれから2年後の1943年1月に報告書を提出し、彼はこの中で原爆製造は可能であり、ウラン235を熱拡散法で濃縮するのが最良であると結論付けていた。こうして日本版の原爆開発計画である「二号研究」が開始された。

6フッ化ウランによるウラン濃縮実験は1944年7月より開始されたが、実験装置のウラン分離筒に6フッ化ウランによって腐食されやすい銅を使うなど設計上のミスもあり、1945年3月に得られたサンプルを分析した結果はっきりした濃縮の効果を見られず、計画は失敗した。

一方戦時中の日本では、陸軍の「ニ号研究」とは別に、海軍の方でも「F研究」という原爆研究が進められていた。こちらは京都帝国大学の荒勝文策教授を中心とするグループが行っており、中間子論の提唱者の湯川秀樹も参加していた。こちらの研究も原爆の材料には濃縮ウランのみを選択し、濃縮方法には遠心分離法を採用していたが、実験装置は設計段階で敗戦を迎えた。(2014/8/5)


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