上西 俊雄
[はじめに]
先日、遠藤浩一氏の「生き方としての國語---國語への構へ方から「保 守」について考へる」と題する講演を聽き、一般に假名遣といふものがど う考へられてゐるかに思ひ至った。以下、歴史的假名遣を甲とし、現代假 名遣を乙とすることにする。
恐らく、甲は乙に比べて不便なもの不合理なものと考へられてゐるのだ。 たとへ不合理であっても安定してゐるものの方が不合理なものよりよい。 つまるところさういふことなのだらうか。甲と乙は實際のところ何が違ふ のだらう。
甲は、我等の先人が正しく書かうとつとめたことの積み重ねによって成立 したもの。乙は文部省が戰後導入した改革表記のうち漢字および送假名を 除く部分。
乙は表音的假名遣だと言はれる。甲も表音的假名遣なのだ。甲の場合は據 り所とする國語音韻が過去のものであり、乙の場合は現代だとされるやう だが、そのことが既に確かでない。しかし、とにかく乙の場合は書き手は 自らの國語音韻に從って假名を書いていけばよいとされたのだ。假名遣が 簡單になった、といふより、假名遣などに煩はされることがないようにし たかったのだ。
乙には昭和21年版と昭和61年版とがある。前者は「假名遣」の部分を假名 で表記する。乙を主張する立場でありながら表記の違ひで區別するのも變 なものだが、ここで乙といふとき、二者の違ひは問題にしない。
甲には規範がある。乙には規範がない。さういふ意味で乙は假名遣ではな いのだ。實際、「絆」といふ語は戰前はキヅナと書くことに決ってゐた が、戰後はキヅナでもキズナでもよいことになった。
甲は汎時的。萬葉集から現代まで表記可能。乙は共時的。甲は過去指向 的。乙は未來指向的。その時點での最適化を求めて絶えず變化することを 當然とする。乙の現代は明治期の日本語。英語の氾濫する現代日本語の現 代ではない。
甲は辭書で調べることができる。乙は自分で決めて書くのだから辭書で調 べる必要がない。
甲は五十音圖にある假名がすべて必要。乙は同じ音を表す假名は一つでよ いとして五十音圖を刈込んだ。乙は制限假名字母表記なのだ。
[假名字母の制限]
英語は表音文字によって表記されるが、その綴りの文法は複雜であり、か つ例外が多い。我國の場合、戰前の辭書をみても、きはめて簡單だといふ べきだらう。讀み方が解らないやうな例外は皆無といってよい。その合理 的な表記體系を、ジとヂ、ズとヅ、イとヰとアヒクチ(匕首)のヒ、ウと アフ(逢)のフ、エとヱとイヘ(家)のヘ、オとヲとコホリ(氷)のホ、 ワとイハ(岩)のハなどの書分けがあるのは贅澤だとジズヰヱヲ、それか ら語中のハヒフヘホ(ハ行轉呼音といふ)の使用を禁じたのが乙だ。
これらの字母、特にヰヱ及びハ行轉呼音の假名を用ゐさへしなければどう 書かうと間違ひとはされないのだから制限假名字母表記と呼ぶべきだ。
乙には規範がないとしたが、規範めいたものがないわけではない。その部 分は音聲に基づくのでなく、甲からの變換といふ方法で決められた。オ列 長音と呼ばれるものの表記は、本則ではウであるが、甲でホであったもの はオとするとする準則がある。
乙はテニヲハについても表音的であるとは言へない。このことは、國會圖 書館の JAPAN/MARC アクセス・ポイントのカナ形サブフィールドにおける カナ表記要領をみるとよく判る。表音的といふ點で乙より徹底してゐるか らだ。一部を紹介する。なほ引用の際も差支へないかぎり甲による。
<舊かなづかひはその現代語音によって表記する。
てふてふ チョウチョウ
どぜう ドジョウ
としゑ トシエ
助詞「ハ」「ヘ」「ヲ」は「ワ」「エ」「オ」と表記する。
こんにちは コンニチワ
いずこへ イズコエ
字を書く ジ△オ△カク
2語の聯合または同音の連呼によって生じた「ヂ」「ヅ」は「ジ」「ズ」 と表記する。
ちかぢか チカジカ
磯づり イソズリ
かなづかい カナズカイ
ちぢむ チジム
つづり方 ツズリカタ >
「字を書く」の例のところに△があるのは空白の意味だと思はれる。分か ち書きなのだ。ローマ字轉寫のための前處理だから當然かも知れないが、 テニヲハは英語の場合の前置詞ではなく、後置詞とでも呼ぶべき存在。ハ 行轉呼音など、語中のハ行音と見るべきものだから、この部分を分かち書 きして語頭のやうに書くといふことはローマ字論が間違ってゐるとみるべ きだ。
表音的假名遣の試みは戰前からあった。棒引き假名遣なるものが行なはれ たこともある。點字もその影響を受けた。點字は制限假名字母ではないけ れど、助詞「ハ」を「ワ」、「ヘ」を「エ」とするから乙以上に表音的と 言へるだらう。表音的表記はすでに三つの分派に分かれてゐるわけだ。
[汎時態と共時態]
音聲が共時態の紐帶であれば文字は汎時態の紐帶、傳統をつなぐに必須の ものだ。乙は過去との繋がりを斷つには斷つたが、新たな傳統を擔保する 力など定義上からしてないといふべきだらう。
甲は傳統の上に規範をみようとするもので、その蓄積は辭書だ。スクラッ ブルといふゲームがある。アルファベットの文字のブロックを竝べて單語 (意味のある綴り)にするゲームだ。でたらめな綴りは認められない。辭 書にある、つまり典據のある綴りでなければならない。
乙は生れて六十有餘年、未だ確立せず、その六十有餘年は、外來語の表記 からして、すでに音韻論的に同時代ではない。
戰後、文部省が表記を切替へたとき、信念のある人は從はなかった。しか し公教育では甲を教へない。それどころか、その存在を生徒に知らしめま いとして五十音圖までみせないやうにしてゐる。戰後教育を受けた世代で 甲の人は意識的に切替へたわけだ。
何故切替へるのか。思想的に保守となり、もしくは保守たらんとして切替 へるのか。情念として戰後的なものを忌避するために甲に切替へる人はゐ るかもしれない。逆に右翼的なものであるから切替へるのをためらふ人も あるかもしれない。
遠藤氏は甲で書いてコスプレと言はれたとのこと。甲を恰好いいと見る人 があるのだ。若い友人に書いたものを送ったところ「意味は解らないが恰 好よい」と言はれたことがある。この場合は字體のことであった。
新字體は略字、舊字體は歴史的に檢證された正字體だから、傳統的表記の 方が恰好よいことは確かだろう。假名字母にしても「ゐ」や「ゑ」など見 慣れぬ字母の獨特の曲線のために魅力を増すことはあるかも知れない。し かし、表記をそんなことで切替へたりはしないだらう。
5年前に甲に切替へたが、切替へてみると思ったより容易であった。何よ り、間違ひがさうでないかがはっきりするので、どんどん身についていく からだ。出版社で乙を身につけることが求められたときは、いつまでも身 についたといふ感じになれなかったのと大きな違ひだ。
實際、文部省による表記規則はよく變更になったし、そのつど、國語辭書 を改訂しなければならなかった。まあ見方によれば、そのつど市場が初期 化されるわけだから一種のバブルであったのかもしれない。
甲に切替へる友人は皆無ではないが少ない。切替へたいが今更に學び直す のが面倒だからとか、パソコンの假名漢字變換が對應してゐないからでき ないといふ人もある。契沖といふ日本語變換ソフトは對應してゐるけれ ど、私の場合は擴張ヘボン式に設定するので是を使ふことができない。
出版社や新聞社は乙でないと受けつけないところが多い。このやうに甲に 對してはいろいろ制約が多いけれど、甲に切替へる人が少なく、また、編 集者や記者が未だに乙を墨守して疑ふところがないのは、乙の側の主張に それなりのもっともらしさがあるからではないか。そのことを考へてみたい。
[二重分節]
アンドレ・マルティネは音韻論で二重分節といふことを唱へた。音聲言語 は語より成り、語は音韻より成るとするわけだ。表記をこれになぞらへて 言へば、漢字は表語文字であり、假名は音韻文字だ。歐米の言語のやうに アルファベットを用ゐる言語からすれば、假名は音韻文字といふより音節 文字といふべきかも知れない。
かつては表記通りに讀まれてゐたのが音韻變化の結果、讀みと假名とにず れを生じたので、それを修正するのだといふのが表音主義者の説明。コホ リと書いてコオリと讀む、或は蝶々をテフテフと書くのは變だらうと言へ ば、誰でもさうだと思ふだらう。音と假名との關係を一對一でみようとす ると、確かに甲は分が惡い。乙の力の源泉はここにあるのではないかと思ふ。
しかし、ここに語といふ水準を考へてみればどうだらう。英語の場合、た とへば、E といふ字は開音節(母音字だけの音節)ではイーといふ音を表 し、閉音節ではエといふ音を表すのが原則だ。閉音節でイといふ音を表す のはとんでもないことではないか。
(この場合、economy のやうに弱音節でイとなる場合は勘定に入れな い。)しかし、そんなへんてこな綴りの語が英語には存在する。たとへば English がさうだ。外に思ひつくのは England と pretty くらいだら う。語の形で認識するからこれで良いのであって、これを Inglish とす ることはない。
假名は分かち書きをしない。ハ行轉呼音は語中に限るのだから、語頭の場 合と區別して逆アポストロフィで表すことにするとコホリは ko`ori で、 テフテフは te`ute`u だ。コホリが English ほどでたらめな表記でない ことがお判りになるだらうか。テフテフにしても、要するに eu の問題で あって、eu が Europe のそれのやうに發音されることは、例外でなく規 則なのだ。少し例を擧げてみよう。
<要約(euyaku)、萬葉(mane`u)、
教育(keuiku)、今日(ke`u)、
昭和(seuwa)、妾宅(se`utaku)、
朝廷(teutei)、間諜(kante`u)、
泌尿器科(hineukika)、
妙齡(meurei)、
料簡(reuken)、獵犬(re`uken)>
ハ行轉呼音には切離すべきでないとする機能があるやうに感じられはしな いだらうか。タ行のイ段の音はいささか拗音化してゐるわけであるが、英 語の question で t の音價が tsh になることと竝べてみると、テフテフ も English といふ綴りよりは遥かに納得しやすいものだ。
この eu といふまとまりは、語(單語)といふより、言語學でいふ形態素 のやうなものだが、このまとまりが Europe のそれのやうに發音されると いふ解釋規則が甲の場合には必要。乙は假名の音價を一義的に定めて解釋 規則を不要とした。しかし、たとへば女王とか硫黄とかいふ語を乙に從っ て書かうとすると音節單位に切るのが難しいことが理解できよう。
調布といふ町は甲ではテウフ、乙ではチョウフ。語頭をテでなくチョとす ることによって eu が語頭のタ行音に及ぼす影響をいふ必要はなくなる。 しかし、次の「ウ」と合してチョといふ音をもう一拍延ばして讀むのだと いふ解釋規則を不要とすることはできない。やはり假名のまとまりで見る より仕方がないのだ。
ところで、ハ行轉呼音といふのは、ア行やワ行のやうに讀むハ行の假名の ことといふ意味だらうが、ひょっとしたら捉へ方が逆なのではないだらう か。このハ行音は、いはば一種の境界符號であって、なにか特定の子音を 表すものではなく、ただア段のときにのみ、兩唇半母音の渡り音になると いふだけではないか。さう考へると、これはワ行の場合とまったく同一で あって、ワ行の場合とは音節を區切るのか繋ぐのかといふ違ひがあるだけ のやうに感じられる。
なほ、たとへば「琉球」は甲ではリウキウだが乙ではリュウキュウ。點字 の場合、負荷が増えたといふべきだらう。
[表音的假名遣は假名遣に非ず]
語といふ水準で考へれば、料簡(reuken)、獵犬(re`uken)の如く、同 じ音を表す複數の假名があることが有利に働くことはみてとることができ よう。甲で書分け可能であったものが乙ではできない。書分けがないのだ から橋本進吉博士の昭和十七年の論文のやうに「表音的假名遣は假名遣に あらず」なのだ。
しかし表音的といふことが、更に進んで、書き方は個人で決めてよいのだ とする考へ方を招いた點もあったと思ふ。つまり二重の意味で縱の紐帶を 破壞するやうに感じられるのだ。
[外來語や外國固有名詞の表記]
制限假名字母表記は外來語の表記にもみることができる。
たとへば「スカンジナヴィア」。「ヴィ」といふ國語音韻に本來屬してゐ ない音まで書分けようとしてゐるわけであるが、さうであれば何故「スカ ンヂナヴィア」としないのか。戰前の「ビルヂング」といふ表記は今なら 「ビルディング」となったはずだ。
外來語音もなるべく手持ちの假名で書かうとして「ディ」のところに 「ヂ」を用ゐたのだから、ダ行のイ段音は「ジ」で代用表記せざるを得な かったはずだ。「ディ」や「ヴィ」など本來の五十音圖にない音節を書き わける場合であれば「ヂ」が解放される。だからダ行のイ段音(口蓋齒莖 破擦音)を「ヂ」とするのが先のはずだが、制限假名字母に呪縛されてゐ るわけだ。kid の複數を「キッズ」と表記するのも同斷。英語音の説明も ままならないわけで英語教育の效率が惡いのもむべなるかなと思はれる。
平成22年2月8日記
[付記]
平成22年2月2日、國語議聯の勉強會で遠藤浩一氏の講演があった。演題は 「生き方としての國語」。歴史的假名遣を選ぶのは保守だからだと聞こえ るところがあったので一文を草して送ったのが2月8日。2月11日附で立派 な表書きの封書で「就中、「歴史的假名遣と現代假名遣」は秀逸なる國語 論にて云々」と禮状が來た。『國語國字』では長すぎたのか掲載にならな かった。
遠藤氏よりメールをもらったのは昨年1月24日が最後。亡くなる1年前で あった。合掌。