2014年08月17日

◆岩手?の偉人東條英機

渡部 亮次郎


岩手のNHKに記者として在勤中(1960-64年)、ほぼ県政を担当したが、県の幹部も県議会の幹部級も「東條英機は岩手県人」と言って譲らなかった。

原 敬(歴代19代)、斉藤實(30代)、米内光政(37代)。それに東條(40代)も岩手だと言うのだった。しかし父親は岩手人だが、本人は東京生まれの東京育ちだ。今になってみれば、その後、鈴木善幸が総理になった。岩手出身の総理はやはり4人だからいいじゃないか。

東條はアメリカとの戦争を始めた総理大臣で、敗戦後その責任を戦勝国に問われて極東軍事裁判にかけられ絞首刑に処せられた。

その後何年もしてから靖国神社に合祀されていることが分って、さらに何年もしてから中国、韓国が「戦犯を祀っている靖国神社に総理大臣が参拝する事は許されない」と騒いで、若い人でも耳にするようになった名前である。

インターネットで「大日本帝国陸海軍資料館長」と言う方が「東條英機陸軍大将について」として東條の事績を詳細に記録しておられる。
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/toujou-memo.htm

これによると東條は、明治17年(西暦1884年)12月30日、当時陸軍大学校第1期生であった東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と東條千歳の3男(2人の兄は夭折)として東京市麹町区隼町で誕生した。

因みに「陸海軍将官人事総覧陸軍編」(芙蓉書房出版)」等諸資料で出身地が「岩手」とされているのは、東條の三男である東條俊夫元空将補によると、次のような事情があったためだ。

本籍は既に東京に移していたが父英教の故郷が岩手県であり、旧藩主南部伯爵家の御世話をしていた関係から、英機も後年岩手県人会に招かれてこれに出席していた。

このため、「東條は岩手出身」であると言われていたそうだ。いわば周囲の勘違い、といったらそれまでだが、「偉い人」を身びいきするのはどこにもあることで、岩手の人たちも東條が偉かったうちは身びいきし、戦犯になったら、無情な人たちはあれは本籍は岩手に無かったといいたいのだろう。


<東條と不仲で東條に予備役にされた山形出身の石原莞爾は戦後、盛岡に講演に来て「東條はご当地の出身」とわざわざ揶揄したと伝えられている・・・これは誤っています。

昭和16年の陸軍異動で東条陸相は、京都師団長だった石原莞爾中将を解任、予備役に編入したのですが、これを契機にして石原は東亜連盟顧問として活動します。昭和17年9月14日に盛岡に招かれ、東亜連盟主催の講演会で講演しました。

石原は開口一番「諸君は内閣総理大臣東条英機なる男を同郷の先達と誇っておられるようだが、これは大きな誤りで、東条の先祖はそもそも」・・・ここで臨監の警官が立ち上がって「弁士、注意!」。

だが石原は「東条は盛岡出身でない。彼の先祖は江戸からの流れ者。風来坊の一芸人で南部藩の出ではない」とやって「弁士、中止」となった。古津四郎氏の「同郷の将星たち」に詳しく出ております。

「陸軍の異端児 石原莞爾」を書いた小松茂朗氏も、盛岡講演会で「あの東条という男は、盛岡の本当の市民ではない。祖父が能役者で・・・」と石原発言を書いています。揶揄どころか師団長を首になった憎しみが露骨。

東条の出生は明治17年12月30日とされていますが、これは戸籍上の届け出。実際には7月30日生まれで、本籍は岩手県。長男と次男を亡くしていた東條英教が、英機を里子に出したためだといいます。東條英教の陸軍中尉説と大尉説が分かれるのも、これが理由のようです。>(この項、古澤襄氏のご指摘)。

東條英機少年は、城北中学校から東京地方幼年学校に入り、陸軍中央幼年学校を経て明治37年6月陸軍士官学校に入校、翌38年3月陸軍士官学校を360人中10番の優秀な成績で卒業した。

明治42年4月11日、当時日本女子大学国文科の学生だった伊藤勝子(かつこ)と結婚、同44年には長男英隆が誕生している。

次男の東條輝雄はゼロ戦や戦後初の国産旅客機YS-11、航空自衛隊のC-1(輸送機)の設計に携わった有能な技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。

他に三男東條敏夫、長女東條光枝、次女東條満喜枝、三女東條幸枝、四女東條君枝らの子がいた。家族の殆どが軍閥であり日本最大の軍閥名家でもあった。 A級戦犯分祀に強硬に反対し続ける東條由布子は孫(英隆の子)。

アメリカ軍は残酷なことをする。東條ら7人の絞首刑執行を日本の皇太子殿下(現天皇陛下)の誕生日の1948年12月23日にした。

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬にされた。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

しかし、小磯国昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺の住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画して成功した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収した。

回収された遺骨は全部で骨壷1つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。

1958年には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年8月には愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。

靖国神社へのA級戦犯合祀が問題になった際、木村兵太郎陸軍大将の妻で、処刑されたA級戦犯の遺族の会である白菊遺族会の会長でもあった木村可縫夫人らがA級戦犯分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。

一方、東條家の墓所である。元共同通信社常務理事の古澤襄さんの調べによると、東條家の墓は岩手県盛岡市大慈寺町1の5の曹洞宗・久昌寺にある。

墓石には「東条英・・・」と刻まれているが、後の字が風化して読み取れない。裏側には「明治10年2月18日没」とあるから英教の母、英機の祖母のものだろう。他の刻字は、やはり風化していて読みとれないとか。

久昌寺は享保14年の盛岡大火(1932戸全焼)で罹災して、過去帳を焼失しているが、2月18日没の人物については過去帳が現存していて、戒名が本照院現安妙大姉、在世年数が41年8ヶ月、続柄が妻、戸主が東条英俊とある。英俊も南部藩士。

東条英機の墓は東京にあるというが、骨は無いのだから遺髪か何かが納められているのだろう。

東条家の先祖は江戸の能楽師だったという。28代南部藩主・重直が江戸で能楽宝生流に凝って、宝生流わき方の能楽師を盛岡に連れ帰ったとされている。

この能楽師が非凡な人物で、南部の窮状を見てとり、芸を捨てて武士となり重直に仕えている。爾来、「英」の一字を子孫に伝えて、英勝、英正、英照、英俊と代を重ね、英教は6代目。東条英機は7代目に当たる。

英教は盛岡中学(現在の盛岡一高)の出身。明治陸軍の建軍で功労があったプロイセン(ドイツ)のメッケル少佐の愛弟子であった。

陸軍大尉(東京・青山連隊)の時に英機が生まれた。東京生まれの東京育ち。それなのに岩手出身とされた事情は既に述べた。

古澤さんは<東條は私の母校・東京府立四中の1年修了で、陸軍東京幼年学校に入学している>と結んでいる。
文中敬称略。007・04・22。参考:フリー百科「ウィキペディア」


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