2014年09月03日

◆前大戦の体験が風化するにつれて劣化

加瀬 英明


渡部亮次郎氏は私と同い年(おないどし)だが、福田赳夫内閣から鈴木善幸内閣にわたって、苦楽というより楽をともにした、多年の親しい友である。

仲間から「亮ちゃん」と呼ばれて、慕われているが、NHKの敏腕政治記者だったところを、福田内閣の園田直官房長官が外相に転じた時に乞われて、政務秘書官として引き抜かれた。私は福田内閣が発足した時に40歳だったが、首相特別顧問という肩書を与えられて、対米折衝に当たった。

私は園田氏と、公私ともに気が合った。2人になると、直(ちょく)さんと呼んだが、外相顧問として手助ってほしいといわれて、亮ちゃんとしばしば二人三脚を楽しんだ。

私は中国ウォッチャーの第1人者としていま時めいている、宮崎正弘氏より10年年長だが、40の同志で、漢籍でいう忘年交を続けている。

 頂門の一針

亮ちゃんが「頂門の一針」という、秀逸な日刊のメルマガを主宰しているが、8月10日現在で3392号となっている。私は「頂門の一針」を、内外の情報の杖としている

http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm

宮崎氏が7月に「頂門の一針」に寄稿しているが、1980年に東京で『日米同盟今後の20年』という、日米有志による会議が開催されたことを、回想していた。

「1980年は『安保改定』から20年。岸信介が日本側代表となり、米国からはフォード前大統領以下、上下院議員が大挙、日本に押しかけ、『20年を祝い、次の20年を考える国際シンポジウム』が開催された。

これは、民間の発議により『日本安全保障研究センター』(加瀬英明理事長、三好修所長)が米国のシンクタンク『ヘリティジ財団』との共催で、評者(注・宮崎氏)は広報責任者として、会場のホテルに1週間ほど泊まり込んだ。

そして、このシンポジウムで安保再改定が提議されたのである。

しかし、日米両政府によって再改定の提議はまったく無視され、マスコミは殆ど報じなかった。時代環境は、それから30年以上を閲しても、まったく変わっていない。日本の自主独立の気概は、まだ本格的に燃えあがってはいない。」

 1978年日本安全保障研究センター発足
 
日本安全保障研究センターは、1978年に発足した。

いまから当時を振り返ると、隔世の思いがする。今日と較べて、まだ、日本人がはるかに正気を保っていた。

先の戦争の記憶が、あのころまで生きていたからだろう。戦前の日本人の気概が、消えていなかった。本来、日本が独立国であって、アメリカによって保護されていることに、忸怩(じくじ)たるものがあった。

その後、戦前戦中の体験が風化するにしたがって、国民の大多数がアメリカによる保護に馴れて、無責任な平和主義が強まった。

三木内閣当時から、アメリカ政府から両国間で民間の防衛問題研究所による共同研究を行いたいと求められていたが、日本にそのような民間研究所が存在しなかったために、懸案となっていた。そのようななかで、三原朝雄防衛庁長官から、私に日本側のフォーラムをつくってほしいと求められた。

 北東アジアの安全保障についての日米会議
 
アメリカ側はスタンフォード研究所(SRI)戦略研究センター〈SSC〉が、窓口となった。1977年にワシントンにおいて『北東アジアの安全保障についての日米会議』が催され、ホルブルック国務次官補(アジア担当)をはじめ、国防省や、統合参謀本部の幹部、上下院議員が出席し、私、三好修京都産大教授、杉田一次元陸幕長、田久保忠衛時事通信社外信部長など6名が、参加した。

カーター新政権の在韓米軍撤退方針を中心として熱論が展開され、その後、カーター政権が在韓米軍撤退政策を撤回する契機の一つとなった。

この時、東アジアの安全保障について、日米共同民間研究を行うことが、合意された。

同年、ワシントンにおいて第1回の会議が催され、防衛庁の竹岡勝美官房長より、統合参謀本部に対して、私たちの訪米について協力を要請する公文書が送られた。三原長官、丸山昴事務次官、久保卓也国防会議事務局長が赤坂の料亭で、私たちを励ます席を設けてくれた。

 1978年に入って、東京で2回目の共同研究会議が催された。

共同研究が始まったことから、桜田武日経連会長を代表とする日本安全保障研究センター(安保センター)設立準備会が発足し、江崎真澄自民党政調会長、三原前長官をはじめとする歴代の防衛長官や、政財界人が名を連ねた。

私が理事長、三好教授が所長となった。勝田吉太郎京大教授、加藤寛慶大教授、福田信之筑波大学副学長、村松剛筑波大教授、来栖弘臣前統幕議長、三輪良雄元防衛事務次官らが理事、顧問として桜田会長、中曽根康弘、中川一郎、金丸信、春日一幸各衆議院議員などが名を連ねた。

 安保センター発足の意義

ホテル・オークラにおいて、発足披露パーティが催され、桜田会長をはじめ政官財界から多くの出席をえて、丸山防衛事務次官をはじめとする来賓が、祝辞を述べた。

安保センターの発足は、大きく報じられた。読売新聞は「日米安保強化へ民間団体『日本の役割を増大』15日に設立」という見出しを掲げて、「その設立趣意書では、アメリカのアジア離れと極東ソ連軍の増強による相乗効果で、『北東アジアのアメリカ優位の軍事バランス』が完全に崩れたとし、

(中略)日米の同盟関係(安保条約)の第3次改定が不可避だとの立場をとっている。日本側の何らかの努力によって、条約の双務性を増やすことにねらいがあるとみられ、安保見直しを掲げた同センターの発足は、防衛政策の責任者だった自民党有力者が加わっているだけに、内外で議論を呼びそうだ」と述べ、サンケイ新聞は「キナ臭い安保研究センター」と、論評した。

安保センターが主催した、もっとも大きな会議が、宮崎氏が回想した、先の1980年8月に行われた日米安保条約発効20周年を記念した、セミナーだった。

 真の独立国は対等な防衛条約が必須

私は日本を再び独立国とするために、米安保条約を対等な防衛条約に改めなければならないと、信じていた。

安保センターは、政府の肝入りで生まれた。そのために、安保条約の第3次改定をうたった設立趣意書を、福田総理、金丸長官、丸山事務次官らに、事前に目を通してもらったが、政府からも、与党からも異論がでなかった。

今日でも、アメリカは多くの国々と軍事条約を締結しているが、アメリカは日本とだけ、一方的に保護することを約束する条約を結んでいる。日本よりも力のない韓国、フィリピンの米韓、米比共同防衛条約をとっても相務条約となっており、人口が僅か四十数万人の小国であるルクセンブルグも北大西洋条約を通じて、アメリカとのあいだに対等な攻守同盟条約を結んでいる。

 集団的自衛権の閣議決定の意義

今年7月に、集団的自衛権の行使について見直す閣議決定が、ようやく行われた。だが、集団的自衛権の行使を禁じているという憲法解釈が、日本社会党の求めに応じてはじめて行われたのは、最近のことで、昭和56(1981)年のことだった。院内の政治取引きのために、行われたものだった。

反対勢力は、日本を「戦争ができる国にしてはならない」と叫んできたが、戦える国でなければ、侵略を抑止することができない。備えることがなかったら、中国に尖閣諸島だけではなく、沖縄県も奪われてしまおう。

アメリカが強要した日本国憲法は、日本をアメリカの属国とする、憲法を装った不平等條約だ。今日の日本の平和主義は、胡散(うさん)臭いものだ。他人の施しによって贅沢な暮しをしている者が自慢して、見せびらかしているようなもので、恥しいことだ。

日本は戦後、時を重ねるごとに、劣化してきた。

                      2014/09/01 (Mon)



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