2014年09月07日

◆その後のベトナムを往く@

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
 

<平成26年(2014)9月6日(土曜日)通巻第4326号 >

 〜その後のベトナムを往く(その1)
   華僑は逼塞気味、日系は工場団地に集中し、大活躍は韓国だった〜

またベトナムへ行った。「その後」どうなっているかを見るためである。

「その後」とは、5月の「反中国暴動」以後、いったいベトナムで中国は何をしているか、そのポイントに一番興味がある。
 
7月に日本からダナンへの直行便が開設された。

ベトナム航空は160人程度の中型機、週4便。筆者はハノイ、ホーチミンには行っているが、ダナンは未踏。今回はここを拠点にホイアンとユエへも。

工業団地が集中している地域でもあり、ダナンーユエを結ぶ幹線道路の主要区間と、あいだに横たわる山岳地帯に6・3キロの長いトンネルを完成させたのは日本の援助による。

当該トンネルの入り口と出口にはちゃんと日本の国旗が大きく嵌め込まれている。

ホイアンは旧市街全体が世界遺産となっている。

このため欧米人の観光客が圧倒的で街を歩くと英語に加え、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語が飛び交っている。

4階か5階建ての瀟洒なホテルが点在し、テラスのカフェなどを覗くといずこも欧米からの個人客が多く、近くのリゾートには長期滞在組が目立ってレンタサイクルで移動している。意外に日本人が少ない。

筆者がホイアンで見学したかったのは日本人町の蹟とか、日本人墓地ではなく、華僑の足跡である。広肇会館、福建会館、華僑会館の3つがお堂のように古い中華風の建物として残り、中国から海を越えて入植してからの「歴史」を展示している。

最初に広肇会館をみて、なるほどと思ったのは、2002年にここに江沢民がきて、揮毫していたことだった。管理人に江沢民がきた時はどうだったかと聞くと「そりゃ、お祭り騒ぎさ」と言った。


▼やっぱりホイアンでも華僑の流れに3派

「広肇」とは広東省の広州と肇慶のふたつの地名を象徴する。広州はクーリーで米国、カナダへ移住した在米華僑の源流だが、広州から西の江門周辺が主として米国へ渡ったのであり、それより北西に位置する肇慶はアジアへ流れた組が多い。

中華門をくぐって内部の拝殿には、広東人らしく関羽を祀っている。関羽は中国ではいまや「金儲けの神様」である。

ホイアンでも華僑の流れに3派があり、上の広州出身と海の民が多い福建省出身が2大派閥、3位は陸続きにベトナムへ入った広西、雲南出身の華僑組である。

福建会館は規模が一番大きく、案の定、「天后」を祀っている。すなわち海の安全を祈る馬祖(中国版ネプチューン)。そしていずれも御堂のあちこちに「航海安全」とか中国語で表記されているのに、境内には僧侶がおらず、管理人たちとはまったく中国語が通じない。中国語の文献はほとんどない。

これは一種歴史的事実を物語る。

華僑は現地に同化した。そのうえ、ベトナム戦争以後におきた中越対立、大量のボートピーポルとチャイナタウンへの苛烈な弾圧、79年の戦争という歴史を経て、表面的な和解の時期があったものの、スプラトリー群島の領有をめぐって両国は対立をしたまま、ことし5月、中国海洋石油(CNOOC)の海洋リグ建設に対して、積もりつもった怒りをベトナムの民衆が爆発させたのだ。

中国企業はベトナムから去った。工業団地はがらがらとなり、8月にぼちぼちと戻ってはいるが、ホテルでも中国人は借りてきた猫のようにおとなしいのが可笑しかった。逆に韓国人はかなり乱雑に振る舞っている。

ベトナム人の対韓国感情は悪いが、流通、小売り、観光産業への投資が顕著であり、じっとその横暴に耐えているという感じである。実際にロッテリアマートという大型小売店、ヒュンダイホテルに各地にはロッテリア、日本より小売りと流通では目立つではないか。

筆者はホイアンでそういう連想をしながら町をそぞろ歩き、川岸にある瀟洒なカフェでうっかりアイスコーヒーを所望した。氷に気をつけるべきだったが、その夜、腹痛に襲われた。
  (つづく)
    
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