2014年09月10日

◆とんかつ万歳

渡部 亮次郎



敗戦7年後の昭和27年4月28日にサンフランシスコ条約が発効して日本ようやく再び、独立国となった。この条約によって、正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条 (b)そこで外務省もその機能を回復するため、語学研修を再開した。

冒頭、教師が「知っている英語があったら言ってみなさい」といったら「トンカーツ」という答えがあったという嘘のような本当の話が残っている。

とんかつ とは豚肉にパン粉をつけて油で揚げたもの。豚カツレツの略。日本で誕生した。豚カツ、トンカツ、とも表記する。ヨーロッパではポーク〔豚肉の〕カツレツというが、日本のは始めから箸で食えるように5つか6つに切ってある。どうも日本食と言っていいだろう。

ものの本によればとんかつを工夫したのは明治時代、宮内省で西洋料理の経験があった島田信二郎氏で、彼が現在のような厚切り豚肉のとんかつを工夫して売り出したものらしい。創業明治38年。今は4代目が上野松坂屋の隣で「ぽん多本家」を開いている。電話:03-3831-2351.月曜定休。

試みにウィキペディアを開いてもトンカツ屋の宣伝と食べ歩記だけがでてくるが、平凡社の百科事典にはちゃんと登場する。

<カツレツ 肉料理の一種で、英語のカットレット cutlet のなまった語。本来の語意はあばら骨のついた羊肉の切身のことで、イギリスでは子ウシやヒツジの肉の切身に塩コショウをして,小麦粉,卵黄,パン粉の順に衣をつけ,バターで両面をきつね色に焼きあげる料理の名としても使われている。

このイギリス料理の調理法が日本の書物に初登場したのは1872年(明治5)のことである。この年,2冊の西洋料理書が東京で出版された。いささかあやしげな豚肉のカットレットを紹介している《西洋料理通》(仮名垣魯文編)と、イギリス式の子ウシのそれの調理法を正確に記した《西洋料理指南》(敬学堂主人著)である。

この両書が刊行されたとはいえ,西洋料理は当時の日本人にはまだまったくなじみの薄いものだった。カットレットの〈ト〉をはぶいた日本式発音のカツレツが日本人の食生活に顔を出しはじめたのは明治30年代になってからで(どうも島田信二郎が始めたものらしい)。

洋食がまだまだ一般化していない時代、柔らかくて、ハシで食べられる洋食として売り出したところ、珍しがられて売れた。それには国産ウースターソースの市販と、ちまたの洋食屋のくふうによるところが大きかった。

日本人好みに工夫されたカツレツは、てんぷらの手法を取り入れたもので、深鍋にゴマ油、あるいは牛肉にはヘット、豚肉にはラードを入れ、大きく薄く切ってたたいた肉にイギリス式の衣をつけてこんがりと揚げる。その揚げたてに国産ソースをかけると米の飯によく合った。

こうしてカツレツは庶民の最も好む洋食となって大正、昭和とうけつがれ、豚肉のそれはせん切りキャベツを付けあわせとする「とんかつ」へとさらに日本化され、とんかつを卵とじにする「カツ丼」も考案されて今日に至っている 村岡 実>
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

東京・上野、正確に言えば文京区湯島3丁目〔松坂屋の真向かいの〕路地にとんかつ屋「井泉」本店がある。昭和5年、創業者が俳人萩原井泉水のファンで「井泉」を雅号にしていたことから「せいせん」の心算で「井泉」とつけたが、下町で「せいせん」と読める文人はトンカツを喰わなかったのか、いまではみんなが「いせん」と呼ぶに任せている。電話
03-3834-2901。定休日:水曜。

支店は全国に散らばっているそうだが、東京だけでも日本橋、銀座、丸ビル、浅草、五反田、吉祥寺、八王子と広がっている。しかし私は本店ムードが気に入っているので、待ってもカウンター席に座って、定(1250〜1350円)を待つ。

なぜかというと、注文を聞き取った女性が、トンカツの揚げ係(多分主任?)に告げるのを合図に各係りが一斉に動き出す。キャベツは既に冷蔵庫に入っている。それを出して盛り付ける係り。

おしんこを盛る係り、トン汁を温める係り。トンカツが揚がる。それを5つに切る係り。それを合図に「定食」1式がさっと整えられる。チームワークたるやみごとの一言。時々は浅草の店にも行くが、チームプレーの見事さを味わうたに、なるべく本店に行
く。

ところで、明治38年の日露戦争の折、海軍は豚肉(ビタミンb1が多い)を食って脚気を克服したが、陸軍の軍医総監森 林太郎〔鴎外〕は脚気は栄養からではなく黴菌だとして豚肉にも玄米にも感心を示さず、何万という兵士を脚気で死なせた話は有名である。

英邁な明治天皇ははやくから肉食の有用性を信じ、明治5年に自ら牛肉を召し上がられると共に、永らく禁じてきた庶民の肉食を解禁された。そこで東京では汁たっぷりの牛鍋、関西ではすき焼きが流行り始めたとされている。

【日本の肉食史】を「世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス」を引用しながら振り返ってみる。

世界的にみてきわめて特異な例に属するが,近代になるまで日本人の多くは獣肉食を忌避していた。675年(天武4)4月17日の詔が布告された。それは前段で魚や獣の濫獲をまねく捕獲法に制限を加え,後段では牛、馬、犬、猿、鶏の食用を禁じ,それ以外の捕獲用は禁制の限りではない,としたものである。

食用禁止の理由は、牛馬については上記天平13年詔のとおりであり、猿についてはよくわからないが(現代では中華料理ぐらい)犬(今は中韓人が強精剤と信じて多食する)は門を守り狩りで働き、鶏は時刻を知らせてくれるといったことのようである。

とにかく、人の仕事を分担してくれる家畜の環殺・食用を禁じたものあった。すでに豚も飼育されていたはずであるが、それも農作物に害を与える野獣一般とともに禁制の限りではなく、全体としてこの詔には農耕中心の国家意識が色濃く投影されている。

それが聖武天皇の時代以後になると、深刻な社会不安を仏教にすがって切り抜けようとした結果、殺生戒にもとづいて一切の殺生禁断、肉食禁制が布告されるようになった。

たび重なる禁令の発布は、まず貴族階級や都市民の間に獣肉食一般を罪悪視する感覚を醸成し、やがて日本人の多くが肉食を穢(けがれ)として、その忌避に傾いていったようである。しかし4つ足動物のトサツを「穢れ」視する解釈は被差別の意識を誘発することとなった。科学の実発達がこれを助長した。

そうした中でも《文徳実録》に見える藤原長良(ふじわらのながら)などのような肉食愛好者も,当然ながらたえず存在していた。

とくに武士たちは戦闘訓練をもかねた巻狩りなどを行った。また、《百錬抄》が伝える1236年(嘉禎2)の宍市(ししいち)のように、京都市民が不浄のことと顔をそむける中で、武士たちが町中に鹿の肉を集積し飽食するようなできごともあった。

清少納言は動物タンパク質のない食事を「精進(そうじ)物のいとあしき」といっているが、獣肉食を拒否すればこのことばはそのまま魚鳥こそが〈美物(びぶつ)〉、つまり、美味なものとする意識につながる。結果、平安期以降、とくに室町期には鳥料理が美物中の美物とされることが多かった。京都が発祥のがんもどき=雁もどき=は良い例だろう。

ちなみに、室町期の料理書に調理法が記載されている獣肉はタヌキとカワウソだけであるが、いずれも肉がくさいのであろうか、殺してから汁の実にするまでたいへんな手間をかけるように書いてある。

室町末期から江戸初期にかけてのヨーロッパ人の来航は,日本人の食生活に対して最大級の衝撃を与えた。彼らが牛、豚、鶏をなんの罪悪感ももたずに環殺食用する光景に接した日本人の中には、旧に倍する嫌悪感を抱いた者が多かったと同時に、奈良朝以来の呪縛(じゆばく)からの解放を感じた者も少なくなかった。

長崎でも京都でも牛肉をたしなむ市民が急増したという。やがてキリシタンの禁圧と鎖国、さらに将軍綱吉による〈生類憐みの令〉の布告などよって、開花しかけた肉食文化は再びタブーの中に閉じ込められたが、江戸後期に入って新しい展開を見せるようになった。

西欧の知識の洗礼をうけた蘭学者などが公然と肉食するようになり、一般にもこれを歓迎する者が多く、江戸で獣店(けものだな)ももんじ屋などと呼ばれた獣肉店が繁盛するようになった。平成の今も東京・両国橋のたもとには「ももんじ屋」の看板を掲げて猪を食べさせている。

儒医香川修徳(しゆうとく)(1683‐1755)のように「邦人ハ獣肉ヲ食ハザル故ニ虚弱ナリ」と栄養面から肉食の必要を説いた人もあり、寺門静軒のように、たわむれであっても来世は獣肉になりたいなどという者もあった。

こうして、全体としては、国学者などを中心にあくまで肉食を不浄視する保守派のほうが多く、幕末にいたるまで肉食の是非についての論議が盛んに行われた。

その一人,天保期国学の大家とされる小山田与清(おやまだともきよ)は《鯨肉調味方(げいにくちようみほう)》という鯨料理一式の本の著者に擬せられてもいるが「肉食の悪風が流行するのは蘭学者連中の始めたことだ、それが火の神祝融(しゆくゆう)の怒りにふれて江戸には火事がたえないのだ」と、とんでもない感情論をぶちまけている。

鯨が魚であった時代であるから,彼自身には矛盾はなかったのだが、いま欧米からみればまことに「けしからん」話だろう。

ところで,日本人の多くが肉食を避け、あるいは嫌ってきたことは、香辛料の使い方に大きな影響を与えた。たとえば、コショウは奈良時代以来輸入されていたが、室町時代以後うどんの薬味とされたくらいで、いっこうに用途がひろがらず、トウガラシが伝来するとまもなくその薬味の座をあけ渡してしまった。

また、どういう使い方をされたのか不明だが、コエンドロ(コリアンダー)が天皇の食膳に供されるために栽培されていたことが《延喜式》に見えるが、その後はまったく使われた形跡がない。

もし、日本の獣肉食がもっと盛んで多様化されていれば、これらの利用、栽培も続けられていたと思われる。また、明治以後の獣肉食をみても、すき焼、とんかつ、カレーなどいずれも米飯に合うものが最もひろく愛好されている。

米食中心の味覚が、西欧風の香辛料を排し、日本の肉料理の方向を決定したといえるようである。〔この項特に 鈴木 晋一氏の記述を参考とた〕


  
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