馬場 伯明
「夏が来れば思い出す・・」だったのに、はや「夏が過ぎ・・」である。
紅い花が次々と長く咲き続けるので「百日紅」と言われる。「週刊文春9月11号」の表紙絵は和田誠の「サルスベリ」。薄紅の花と葉と蕾の緑が青空に映える。白抜きの「週刊文春」のロゴとの対比も絶妙だ。
だが、夏は過ぎた。2014/9/11、稲毛の民家の百日紅の花の一部は褐茶に変わり、萎み、枯れ、揺れている。かつて、杉浦日向子は、葛飾北斎と娘(お栄)などの奇異な生涯をこの花に擬し「百日紅」の傑作を描いた。(漫画・1984-87漫画サンデー連載)。
東京への通勤で早朝自宅からJR稲毛駅へ徒歩10分。戸建ての家屋が続く。庭木の花などを眺めながらゆっくり歩く。夏の花も勢いが消え寂しさが漂う。秋は来(き)ぬ。
「アジサイ(紫陽花)」は初夏の花である。住まいの北東の角の一群も葉が減り渇いた花びらが揺れている。横を通るとかさかさと音がした。
「ルリマツリ」が隣家の石塀から垂れ下がっている。夏の盛りには長い茎に淡青の花が溢れていた。9月、ぱらぱらと落ち道路に黒く積っている。その隣のピンクの薔薇「ブルーネット」も花がまばらになった。
その先の空地に一株の「ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)」が残っている。赤紫の実はどす黒い実に変色した。黄の葉の間から赤い茎が覗いている。怪しげな風情である。
その奥に「ススキ(芒・薄)」の一叢がある。だが、開花はまだであり、は出ていない。何か頼りなげである。
行き暮れて野路に芒を折り過ぐる 馬場久臣(叔父)
隣家の「ジャスミン」の生垣の蔓には緑の葉と枯れ葉が混じっている。狂おしいあの芳香はどこへ消えたのか。今は香りを想像するだけ。
京成線・稲丘第二橋の土手の「カンナ」の群れの黄の花は大半が枯れている。稲丘小学校の塀の下で、元気一杯だった赤い「サルビア」の花も、さすがに衰えてきた。
「オシロイバナ」は生命力がありどんどんはびこる。赤い花がまだ咲き続けている。「エンゼルトランペット」の白いラッパの大きな花が一輪、皺になり口をつぼめていた。
あれっ!9/1、何と、「ジャゴロ」に会った。クマゼミのオス(長崎島原島の方言)であり、じゃぶ・じゃぶ・じゃぶ・・・と鳴く。センダン(栴檀)の低い幹に肢を踏ん張り黒い尻を波打たせている。
8月の蝉たちよ、急げ、鳴き尽くせ、時間がないぞ。
途中のセブンイレブンの横には「アサガオ(朝顔)」がまだ咲いている。ピンクと白のツートンカラー。葉は土色に、花も小ぶりになった。
「ベゴニア」の花が大きめの鉢に残っている。3cmの赤い花でメシベは黄色だが、盛りは過ぎている。葉が欠けた茎が何本も露出している。
JR稲毛駅近くの家の庭に桃色の「スイフヨウ(酔芙蓉)」がある。まだまだ、咲くのだろうか、寿命が長い。黄緑の蕾も散見される。
立派な家の「カイコウズ(海紅豆)」の大木の花も散る。分厚い紅の花弁は暗紅色に変わり道路に落ちている。長崎の田舎の亡母は小庭に散り敷いた美しい海紅豆の花に見とれ、掃くことをためらい立ちすくんだ。
海紅豆の花散りしきしさ庭べに
ためらい立ちぬ掃くこともなく ミスエ(母)
ところで、先週9/6図書館の近くの千葉公園に行った。7月には池は古代の「オオガハス(大賀ハス)」の花が満開だったが、水面が見え、茎が露わになり、葉は半分ほど枯れていた。破蓮(やれはす)である。
敗荷(やれはす)の下水草に花ありぬ 久臣(叔父)
純白の太い入道雲は東へ流れ、鳥たちは南へ去った。8月のジャゴロ(クマゼミ・雄)は鳴き疲れ、地上へ落ち、土へ帰った。
千葉公園の大樹の間をゆるやかに風が通る。あら!その根元には、早くも「ヒガンバナ」の茎と蕾があらわれ、何本か花も咲いている。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
藤原敏行
夏が過ぎ秋は来(き)ぬ。深夜、窓を少し開き、ひんやりとした風に触れ、心地よいその音を聞く。さあ、来週から何をしようか。(2014/9/12 千葉市在住)