平井 修一
朝日撃砕の突撃路はいま開かれようとしている。朝日が呼号する紙とインクと虚報の防御陣がいかに固く長くとも、われらは征く。鉄火の嵐をついて、愛国勇士は断じて征くのだ。
幾たりかの戦友が倒れていった。「朝日殲滅、日本万歳」を祈りながら死んでいった。
今こそ受けよ、この恨み、この肉弾! この一塊、この一塊の弾劾に、戦友の、そして一億の恨みがこもっているのだ。敵の生肝を、この口で、この爪で抉ってやるのだ!
広漠数万キロの戦線に、総進撃の喚声が怒涛のごとくどよもし、どよもす。戦友の屍を踏み越えて、愛国勇士は突撃する。朝日の社旗を足下に蹂躙して、進む突撃路は築地城へ続いているのだ。
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以上は朝日新聞昭和18年2月26日朝刊の「撃ちてし止やまむ」の記事がベース。「米英」を「朝日」に入れ替えるなどした。
それにしても、よくもまあ煽りに煽ったものだ。昔も今も朝日は売れれば嘘、捏造、曲解、何でもする。
この記事は空自出身の先輩からもらった「読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争記事」(リヨン社)という本で知ったのだが、安田将三、石橋孝太郎という現役記者の共著だ。調べたらこうあった。
<本書(太田出版『朝日新聞の戦争責任』)は1994年にリヨン社により発刊され、著作権侵害を理由に朝日新聞が圧力をかけ、発売停止となった本の復刻版です。
戦時中の新聞は言論統制されていたから、責任は問われないという見方がありますが、現実にその紙面を見るとそれはウソであるとわかる。統制は確かにあった。
しかし、勝利戦報道による売上大幅増加に味をしめ、むしろ統制が求めた以上に率先して戦争を煽りまくり、 結果として軍部をして、負けを認めることが不可能な地点まで追い詰めていったのが真実に近い>(サイト「検証:朝日報道」)
同書の「はじめに」にはこうある。
<当時の朝日新聞は、戦争やその時代をどう伝えていたのか。こんな素朴な疑問が出発点だった。戦時中の朝日の縮刷版を見つけ、早速読んでみた。
「ファシズム下の新聞がまともな報道をしていたわけがない」。こうした先入観を持って読み始めたものの、「まさかここまでやるとは」というのが最初の感想だった。
そうした力を持つ新聞が、ひとつ間違えば世論操作の道具となることも、当時の朝日紙面を見れば歴然としている。
当時から日本の言論を代表していた朝日の報道を検証することが、今後の教訓になるのではないか。本書が現代のマスコミを考え直すきっかけになれば幸いである>
朝日はこの提言を「発売停止」で封殺したのだ。ちょうど20年後にブーメランが頭に刺さった。
巻末の「参考・朝日の報道姿勢」にはこうある。
<さんざん虚偽報道を積み重ね、国民を戦争に駆り立てる報道を展開しながら、「まあだんだんに変えていこうじゃないか」(敗戦直後まで編集局長だった細川隆元)で(社主も幹部も)意見一致である。そこには国民、読者に対する罪の意識はうかがえない。
といっても、朝日はまったく戦争報道の責任について紙面で触れなかったわけではない。これも細川の言うステップ・バイ・ステップの一環なのか、敗戦から約3か月後の昭和20年11月7日朝刊紙面には、「国民と共に立たん」と題した社告が掲載されている。
この社告で、自らの報道責任を認め、国民に謝罪するとともに、村山社長、上野会長以下全役員が辞職する、としている。
しかし、これがおざなりな謝罪文という感を持つのは筆者だけだろうか。この社告は行数にしてわずか33行(1行13字)で、1面下方に小さく掲載されている。こんな目立たない社告に、そもそもどれほどの国民が気付いたのであろうか。
しかも、朝日が戦争に加担していった経緯や理由について詳しい説明はない。これでは過ちを繰り返さないための教訓にはならない。
しかも昭和26年には辞めたはずの村山、上野がちゃっかり経営に復帰、村山は会長兼社主、上野は取締役兼社主となるのである。
細川の狙い通り、戦後、朝日はステップ・バイ・ステップで紙面の調子を変え、現在も大新聞の座に君臨している。そして、毎年のように戦争に関する企画記事を掲載しているが、自らの戦争責任については紙面で積極的に取り上げようとしてこなかった。
まるでステップ・バイ・ステップで人々の記憶から忘れ去られるのを待っているようである>
逃げる朝日を追撃しよう。朝日の拠点を包囲しよう。買わない、読まない、読ませない。広告主に圧力を。今こそ受けよ、この恨み! 愛国勇士は断じて征くのだ。撃ちてし止やまむ!(2014/9/17)
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