2014年09月21日

◆植村隆の師匠・清田治史

平井 修一



サイト「正しい歴史認識」が「捏造の元祖が大学を退職!吉田清治を最初に報じた元朝日新聞取締役の清田治史・次は北星学園の植村隆」と報じている。

帝塚山学院大学(PDF)のサイトにはこうある。

<教員の退職について 清田治史氏に対して多数のご意見、お問い合わせを頂戴しておりますが、同氏は9月13日を以て、本人の申し出により退職したことをお知らせいたします>

以下、「正しい歴史認識」から引用する。

                ・・・

この清田治史(きよた はるひと)とは、元朝日新聞の取締役(西部本社代表)で、今年8月5日付け朝日新聞朝刊の「慰安婦誤報検証記事」の中では「大阪社会部の記者(66)」として記載されている。

1982年に世界で初めて「世紀のペテン師」吉田清治(よしだ せいじ)のことを記事にしたのは、この清田治史だった!

漢字で見ると「清田治史」と「吉田清治」なので非常に紛らわしいが、読み方は大きく異なる。

世界で最初に吉田清治(ペテン師)のウソを報道した清田治史(元朝日新聞記者)は、朝日新聞による一連の「従軍慰安婦強制連行」捏造報道に関する批判が高まる中、平成26年(2014年)9月13日をもって帝塚山学院大学教授及び国際理解研究所所長を追われるように退職した!

元朝日新聞論説委員・長岡昇さんの記事「慰安婦報道、一番の責任者は誰か」(9/6)から。

<古巣の朝日新聞の慰安婦報道については「もう書くまい」と思っていました。虚報と誤報の数のすさまじさ、お粗末さにげんなりしてしまうからです。書くことで、今も取材の一線で頑張っている後輩の記者たちの力になれるのなら書く意味もありますが、それもないだろうと考えていました。

ただ、それにしても、過ちを認めるのになぜ32年もかかってしまったのかという疑問は残りました。なぜお詫びをしないのかも不思議でした。

そして、それを調べていくうちに、一連の報道で一番責任を負うべき人間が責任逃れに終始し、今も逃げようとしていることを知りました。それが自分の身近にいた人間だと知った時の激しい脱力感――外報部時代の直属の上司で、その後、朝日新聞の取締役(西部本社代表)になった清田治史氏だったのです。

一連の慰安婦報道で、もっともひどいのは「私が朝鮮半島から慰安婦を強制連行した」という吉田清治の証言を扱った記事です。1982年9月2日の大阪本社発行の朝日新聞朝刊社会面に最初の記事が掲載されました。

大阪市内で講演する彼の写真とともに「済州島で200人の朝鮮人女性を狩り出した」「当時、朝鮮民族に対する罪の意識を持っていなかった」といった講演内容が紹介されています。

この記事の筆者は、今回8月5日の朝日新聞の検証記事では「大阪社会部の記者(66)」とされています。

その後も、大阪発行の朝日新聞には慰安婦の強制連行を語る吉田清治についての記事がたびたび掲載され、翌年(1983年)11月10日には、ついに全国の朝日新聞3面「ひと」欄に「でもね、美談なんかではないんです」という言葉とともに吉田が登場したのです。

「ひと」欄は署名記事で、その筆者が清田治史記者でした。朝日の関係者に聞くと、なんのことはない、上記の第一報を書いた「大阪社会部の記者(66)」もまた清田記者だったと言うのです。

だとしたら、彼こそ、いわゆる従軍慰安婦報道の口火を切り、その後の報道のレールを敷いた一番の責任者と言うべきでしょう。

そして、清田記者の愛弟子とも言うべき植村隆記者による「元慰安婦の強制連行証言」報道(1991年8月11日)へとつながっていったのです>(以上)

              ・・・

師匠と弟子と詐話師・吉田清治の醜いコラボが、でっち上げの虚報を産み出し、朝日が世界中に拡散し、日本と日本人を貶めたのだ。被害者1億3000万人という世紀の冤罪事件。泉下の英霊やご先祖様を含めれば数億になる。

我々は朝日を絶対許さない。1億火の玉となって殲滅戦を戦い抜こう。君よ憤怒の河を渉れ。合言葉は「鬼畜朝日。停戦しません、潰すまで!」。1人たりとも討ち漏らすな。(2014/9/17)

         

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