眞鍋 峰松
今月9月は敬老月間。9月15日が敬老の日。毎年のことだが、この時期に老人に関する話題が新聞・テレビなどで大きく報じられる。
今年の総務省発表によると、総人口に占める割合は65歳以上が25.9%、75歳以上が12.5%と過去最高。つまり、65歳以上が4人に一人、75歳以上が8人に一人になったという訳である。
その大きい要因は団塊の世代といわれる1949年(昭和24年)生れの人間が65歳に到達したからだという。我が国おける老人人口の占める割合が今後ますます高まることは間違いない。
だが、この傾向が決して我が国自体の沈滞化に繋がらせてはならない。私自身も71歳に到達したのだからと、願わくば、次の三国志の主人公である魏の曹操の漢詩のような気概溢れる人生を送りたいものだと念じている。
老驥伏櫪 老驥 櫪に伏すも
志在千里 志 千里に在り
烈士暮年 烈士 暮年
壮心不已 壮心 已まず
この意は、「駿馬は年老いて厩につながれても、志だけは千里のかなたに馳せているもの。それと同じように、男らしい男というものは年老いた晩年になっても、やらんかなの壮心を失わないものだ。」というのである。
ところで、老という文字は、中国では単に通常の年寄りに対する呼び名だけではなく、目上の人や自分より年下の人間に対しても、老先生とか老大人とかという尊敬の表現にも使い、 元々老という文字は中国でも年齢的に老いるという意味で使われるのだが、同時に慣れる、練れるという意味を持っているようだ。
そこで、経験を積んで練達した人を尊敬するのに、老という字を付け加える。お酒でもよく練れて口あたりも良く、いつまでもほのぼのと酔いを持続する、そういうお酒を老酒と呼ぶ。
ところが日本ではこういった言い方はしない。中国の老酒に対して、日本の清酒は生一本と言われるように、生ま(なま)のお酒を売り物にし、酔いに対する即効性を愛する傾向がある。
だから、敬老即ち老いを敬し重んじるということは、経験や練達を尊重するということになり、それは、思想で例えるならば、現実を把握した深い思慮である。
逆に言えば、生まを愛するということは新鮮を愛するとすることで、同時にそれは経験の未熟ということで、どうかすると副作用、失敗を伴いやすいことになりかねない。
最近のオバマ米国大統領の唱えたチェンジ、チェンジなどもこれに属する類なのかも知れない。
だが、世の中、何事につけ、老人だけが集まって、或いは若者だけが集まって議論したり、活動しても上手くいかないもの。 “亡年の交わり”といわれるように、若い時は老人と交わり、於いては若者と交わる。この亡年の交わりこそが、人が年齢に関係なく成長し続ける方策なのだろう。
故本田宗一郎氏が「飛行機は飛び立つときより着地が難しい。人生も同じだよ」と言われ、小説家の故吉川英治氏が「この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが、帰りはない。この旅でさまざまな人と道中道連れになる。それの人と楽しくスムーズにやっていくには人生のパスポートが大切だ。それはお辞儀と挨拶である。」と説かれたように、人間まさに老いるということ自体が難しい。
まして、老いても世のために尽くしていく方途はないものかと思案するものの、なかなか簡単には行かないものだと感じる、昨今である。
(評論家)