2014年09月26日

◆NHK退職後の37年

渡部 亮次郎

給料を貰っていた日本健康医療専門学校の校長を2008年5月末日限りで退職したので、年金生活者になった。以後はメルマガ「頂門の一針」主宰者。要するに「無職」。

人生で一番嬉しかった事は大館から仙台への転勤だった。見送りは誰もいなかったが、晴れてNHKの正社員。1年後れの「34年組」3級放送記者に7月10日付で発令された。そこで1年。チリ地震津波を取材した。

今度は岩手県の盛岡放送局。放送部は別棟の木造瓦葺平屋建て。明らかに「付け足し」だった。取材で「NHKです」と言うと「聴取料は先ごろ納めましたよ」と言われる時代だった。

NHKがニュースの自主取材を開始したのは敗戦後の昭和26年。どこの官庁でも記者クラブに入れて貰えず、先輩たちは苦労したようだ。そのあとの民報の加入には結構、意地悪したらしいが。

家は米作農家。しかし長男は地元秋田の新聞記者になったので、親は大學出の私に後継を期待した。折角の大學出、勿体無いとNHK生活を許してくれた。家は妹が婿を迎えて継いでくれた。

盛岡では県政を担当。参院選挙で社会党候補が勝つと予報。東京政治部では奇想天外な事だったらしく、すぐに政治部に発令。あの時も嬉しかった。もはや「通信員上がり」ではなくなっていた筈だからである.盛岡中の芸者が見送りに来た。誰とも寝ていないのに。

昭和40年日韓基本条約の批准案が衆院で強行採決。社会党の楢橋代議士のセンターベンツが自民党代議士に裂かれた。これほどまでに自社対決を招いた朝鮮半島とは何だろう。

1972年、日中国交回復の田中角栄総理に同行して北京を訪問した翌年、韓国の朴政権に招かれて38度線などを視察。それを表向きの理由にされて大阪に左遷。単身で3年を過ごした。

大阪には赴任しないと辞表を3度出したが受理されなかった。政治部長が告白したところでは「君の転勤は、田中総理の意向なのだ」。私がTVに出て喋る解説が田中政権の邪魔なのだと言う。受理されれば田中金脈をある雑誌で暴く計画が出来つつあった。

報道局長が「3年経ったら政治部に戻してやるから」と言ったので「そんな事は信じない。3年後にあなたはそこに坐っていない」と憎まれ口を利いた。

3年経ったところで大阪ではこのまま大阪人にする計画のあることを知り、自分で計略を立てて東京に戻った。しかし政治部ではなく国際放送局(ラジオジャパン)だった。

もはや40歳。このまま居てもNHKに自分の居場所は無い、と考えているところへかねた親しかった福田赳夫内閣の官房長官園田直さんから自宅に電話。「なべしゃん、秘書官やってくれんね」。

誰にも相談せずに承諾。国立(くにたち)の自宅からバスと電車を乗り継いで総理官邸に到着したら、内閣改造で園田さんはただ1人居残り、ただし外務大臣に横滑りしていた。私は行ったこともない外務省の大臣秘書官になっていた。

実は福田さんの任期切れが迫っていた。幹事長大平正芳さんとの密約(メモ)で任期は「2年」。既に1年しか残っていない。密約の福田側立会人は園田。園田の機嫌をとりながら密約を反故にするための外相への横滑りだった。

世間は密約なぞ関知せぬところ。これは田中、三木の両政権でも成就できなかった日中平和友好条約の締結を成さしめるための人事と解説した。なるほど、園田氏は官房長官当時から早期締結の主張者ではあった。

側近になって気付いた事実。園田氏は黒衣(くろこ=忍者)を官房長官当時から中国に放って、外務省ルートでは得られない中国中枢部の情報をつぶさに得ていたのである。それは確実にトウ小平氏につながっていた。北京の日本大使館にこのルートは存在しなかった。

この忍者は条約の締結調印まで北京を2年間で14往復した。その結果「園田さんが来てくれさえすれば条約は締結する」という言質を早くに得ていたのだ。なるほど北京到着の翌日、日本側主張のとおりに妥結した。

締結の後、北京の日本大使館では「あれは世界情勢の変化を反映したもので、園田さんの功績でもなんでもない」と偉そうなことを言う人がいたが、それなら「だからじっとしても締結は成る」と電報で進言してきたらよかった、ね。

外務省で園田さんは福田、大平、鈴木の3内閣の大臣を務めた。,鈴木内閣でははじめに厚生大臣も務め、中国残留孤児帰国問題に手をつけた。糖尿病患者80年来の念願だったインスリン自己注射を許可した。昔、初入閣で公害病認定の決断に並ぶ功績である。

秘書官を終えたところで園田さんが70歳で逝去。やがて元防衛庁長官栗原祐幸さんの世話で井上美由紀さん(当時アルバイトニュースの学生援護会社長)を紹介され、井上会長の下で社団法人日米文化振興会の理事長に就任した。改めて英会話を習い日米間を17年間往来した。

続いて私学を手広く世界に展開する創志学園理事長の要請で柔道整復師と鍼灸師などの養成専門学校日本健康医療専門学校の校長となり7年間務めたが、都合で2008年5月一杯で退任した。

気がつけば72になっていた。省みていろいろな方にお世話になりっぱなしの半生だった。有難う御座いました。サラリーマンの退職じゃないから退職金はなかった。今は78歳。

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