2014年09月30日

◆木津川だより 7世紀の木津川流域A

白井 繁夫



「大化改新詔:646年」に「畿内国」の境界が定められており、木津川沿いには「畿内国」の中心「大和」から木津(泉津)→宇治(菟道:うじ)→山科(逢坂山)を通り、近江へ出る幹線道路(山背道:山城道)が、すでに在りました。

『日本書紀』大化2年正月条:畿内の境界:東は名墾(なばり:名張市)の横河、南は紀伊の兄山(せやま:かつらぎ町の背山)、西は赤石(明石)の櫛淵(くしぶち:須磨浦公園付近)、北は狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)、と定められています。

天智2年(663)8月、白村江(はくすきえ)の戦いで、唐.新羅連合軍に大敗した我が国は、国土防衛に傾注し、天智6年(667)3月、都を後岡本宮(あとのおかもと)から近江大津宮へ、飛鳥地方に在った諸施設を残して、突然、遷都しました。
この遷都で、「木津川」の右岸を通る「山城道」の重要性がさらに高まったのです。

668年正月、中大兄皇子は大津宮で即位して天智天皇になり、大化改新以来のパートナー(同母)弟(大海人皇子)を皇太子に就けていましたが、兄弟間を取持って来た中臣鎌足(藤原鎌足)が669年10月薨去後、天皇は成長した我が子を親として、大王位に就けてやりたいと思うようになったのです。

大友(伊賀)皇子の生母は「卑母:ひぼ」(地方豪族の女むすめ:伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめ)であり、当時のしきたりでは、≪大王として擁立する者の生母の「血統的条件」は大王又は王族のむすめか中央の超豪族の女子でなければならない。≫
と云われていました。

大王たるべき者は前大王の同母兄弟か、大王に相応しい年齢、人格者として群臣(まえつきみたち)の推戴を受ける必要があったのです。(大海人皇子を支持する人々が多かった。)

天智天皇は晩年に至って、大友皇子を太政大臣に任じ(671年)、後継者とすると同時に
補佐役を大豪族で固め、左右大臣(各1名)、御史大夫(後の大納言:3名)の5名を任命して近江朝廷の主宰者にしました。(こうした中、大海人皇子は皇太子の地位を追われ、威圧を感じるようになりました。)

大海人皇子は天智天皇に出家して吉野宮へ入る事を申し出て許可を得、10月19日に妃の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、草壁皇子や舎人達を連れて総勢70余人が大津の宮から菟道(宇治)を経て山城道(木津川右岸道)を通り飛鳥の島宮から20日に吉野に到着して、吉野宮に隠遁しました。

大津宮から菟道まで、大海人皇子一行を見送った近江朝の重臣は、左大臣蘇我赤兄(あかえ)、右大臣中臣金(なかとみのかね)、御史大夫蘇我果安(はたやす)ですが、この時点では三人の重臣は大海人に未練を持っており、殺害目的などの懸念は少しもありません。

宇治には既に橋が架かっており、この橋がこちらの世界と別の世界の境界でもあり、当時の人々は重要な人々に対しては、ここまで見送り、折り返す習わしだった、と云われています。

東アジアでは、唐対新羅が戦争に突入しそうな状況下となり、我が国は唐か新羅に協力か、両面外交かと路線の対立がありましたが、中臣鎌足の死、大海人の隠遁などが発生した結果、近江朝は唐に協力する方針を取ることを決定しました。

天智10年(671)唐の李守真が軍事的援助を求め来日しましたが、具体的返答を曖昧にして唐使に伝えたため、同年11月に2000人の兵を連れて郭務悰(かくむそう)が再度来日しました。

近江朝は我が国の白村江戦争捕虜と交換に大量の武器と軍事物資を供与し、派遣する兵の徴兵準備は至急開始するという条件で、(翌年)5月12日帰国させました。

しかし、当時の日本は先の戦争で、西国は非常に疲弊しているため、徴兵などは困難であり、東国の美濃、尾張などを中心に徴兵して軍備も整えることに重点を置きました。

吉野に隠棲した大海人皇子は近江に残した高市皇子、大津皇子の状況報告と近江朝の動静を得るため、大海人派の舎人(とねり)と逐次連絡を取り合っていました。
(671年12月3日天智天皇の薨去、近江朝は長期の「殯:もがり」の儀に入りました。)

大海人皇子と妃の鸕野皇女は対新羅戦用の徴兵が完了する時期を窺がっていた時(672年5月)に、朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)から下記の情報を得ました。

『美濃と尾張の国宰が山陵を造るための人夫を徴発し、それらに兵器を持たせていた。』と
の報告により、大海人皇子は挙兵を決意した。と云われています。

6月22日:対新羅戦用に徴発された徴兵が完了し、美濃.尾張の各拠点に多数の兵が集結し終わった。美濃の兵の中には多品治(おおのほんじ)下の兵も含まれる。という情報に基づき、大海人は地方豪族の舎人三名を美濃への使者に任命しました。

(地方豪族三名の出身地と氏名)村国男依(むらくにのおより:美濃の村国から尾張の村国郷)、身毛広(むげつのひろ:現岐阜の関市:大海人の湯沐邑に関係深い)、和珥部君手(わにべのきみて:近江の和邇村:滋賀郡志賀町)

この3名より湯沐令(ゆのうながし)の多品治に「枢要の作戦」を知らさせて、「安八磨郡:あはちまのこほり」の兵を徴発すること、美濃の国宰に命じて「不破道」を閉塞すること。と命じました。(湯朴邑:ユノムラは大海人の支配する領地です。)

大海人皇子と妃の鸕野.草壁皇子が吉野に入って半年間、吉野から湯沐邑のある美濃への脱出ルート(吉野→大倭→伊賀→伊勢→美濃)をより安全に美濃(湯沐邑)に到達する(安全なルート作り)のため、下記問題の解決方法を検討しておりました。

それは、(伊賀は大友皇子の生母の出身地:夜間に山道を通過? 大津に残した高市、大津両皇子との連繋問題、大海人一行の交通手段「馬.輿」、兵士の武器.食糧など、各地に派遣された国宰や在地首長が徴発した農民兵の取り込みなどの手段や方策の検討)だったのです

672年6月24日:大海人皇子の一行はついに吉野を脱出しました。「壬申の乱」の始まりです。古代史上稀な情報戦であり、而も反乱軍が朝廷軍に勝利する我が国では唯一の戦史です。次回につづきます。

参考資料:戦争の日本史 2  壬申の乱  倉本一宏  吉川弘文館
     木津町史      本文篇      木津町

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