毛馬 一三
江戸時代の3大俳人・与謝蕪村の生誕地が、大阪市毛馬町であることが学説として定まったのは、何と終戦直後でした。それまで江戸時代から明治・大正・昭和20年頃に至るまで、蕪村生誕地は諸説が出回り、確定していなかったのですが、奈良県の学者によって毛馬町生誕地だと証明されたのです。(本誌に既載)。
この学説が出されたのが遅かった所為か、「蕪村生誕地が大阪毛馬町」であることは、残念ながら地元大阪でも、全国にも広まっておりません。
ところが、このほど改めて蕪村生誕地が毛馬町であることを証明する画期的な「証拠」が出現したのです。
これには目を剥き、歓喜に覆われました。
というのは先月末滋賀県で、これまで蕪村の幻の大作と云われる「蜀桟道図(しょくさんどうず)」が、蕪村自作絵画と、92年ぶりに確認されたのです。しかもこの蕪村が描いた絵の署名に、「蕪村生誕地」が大阪毛馬町であることが明記されたていたのです。蕪村自作絵画鑑定の署名ですから、間違いはありません。
これは終戦後の「学説」が出て以来の、「蕪村生誕地」が改めて裏付けされる証左となりました。詳しくはこれから追々。
まず前記のように、この「蜀桟道図」が、与謝蕪村が晩年に描き、所在が分からなくなっていた作品でしたが、滋賀県甲賀市の美術館が鑑定した結果、92年ぶりに所在と自作絵とが確認されたとして、公開されました。
「蜀桟道図」は蕪村が亡くなる5年前、1778年に描いた作品で、縦およそ1メートル70センチ、横1メートル近い大作。1800年ほど前の中国の風景が絹地に墨と淡い色彩で緻密に描かれ、蕪村が晩年、絵画を描く際に使った「謝寅(しゃいん)」という署名が残されています。まずこれが大切なことです。
作品は、蕪村の愛好家として知られた実業家が1922年に出版した「蕪村画集」に収録されていましたが、その後、所在が分からなくなっていました。最近になってシンガポールの会社が所蔵しているという情報があり、滋賀県甲賀市の美術館が鑑定し、確認出来たというのです。
与謝蕪村の研究を続けている関西大学文学部の藤田真一教授は、この蕪村絵を観て「作品の大きさに驚き、表情豊かな人物の描き方とともに蕪村の意気込みを感じた。蕪村にとって美術と文学が切り離せないということを改めて示した作品だ」と話しています。
「蜀桟道図」は、来年3月に東京で公開されたあと、7月から甲賀市の「MIHOMUSEUM(ミホミュージアム)」で一般公開されます。<参考:NHKニュース>
さらに詰めて行きますと、この蕪村自作絵の末尾に、「生誕地」が大阪毛馬町であると証明する「蕪村署名」が書かれていたのです。
<読売新聞によりますと、この 「蜀桟道図」は、中国四川省北部に行くための険しい道「蜀桟道」を画題とし、縦167・5センチ、横98・9センチの絹地に墨と淡彩で山や空を描写。遠近感や奥行きを表現しながら、道を行く人々を軽やかなタッチで描いている。>と、書いています。
ここからが、貴重な記述です。
<この絵の画面右上に、「(とうせいしゃいん)東成謝寅」という署名を、自筆で書いています。実は「謝寅」は、蕪村が晩年に使った号で、生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する「東成」を冠したとみられるのです。>。
ということは、蕪村が生誕地を証明する見事な「署名」と残したと云わざるを得ません。
<しかも安永7年(1778年)、制作を依頼した俳人にあてて蕪村が、「『蜀桟道図』を完成させて送った」と書いた手紙の写しも残っており、亡くなる5年前のこの年の作品であることが分かる。>
と、読売新聞は記しています。
つまり、蕪村が晩年に使った「謝寅」の号に、生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する「東成」を冠したことが、自ら生誕地を「署名」で残したことになり、改めて「生誕地」が明らかになったのです。望郷の念が在りながら、「生誕地」を明らかにしたがらなかった蕪村にとっては、驚きです。死期の切迫を感じたため、敢て「署名」で告げたのでしょうか。
蕪村生誕地が毛馬町であることが、自作の絵画と鑑定された「蜀桟道図」の「謝寅」の号の署名によって、改めて証明されたことは、終戦直後の定まった「蕪村生誕地」以来、遂に更なる「証」となったのです。このような滋賀県甲賀市美術館で鑑定は、実に素晴らしいことです。
とにかく上記の新証明は、筆者主宰のNPO法人と大阪市立大学と共同で立ち上げている「蕪村生誕300年行事実行委員会」の行事具体化躍進に貢献し、同時に「蕪村生誕地毛馬町名」を一層広げるでしょう。