2014年10月15日

◆“読 書 の 秋” 考

眞鍋 峰松



「 店先に 並ぶ実りで 秋(とき)を知る 」。 これは私の駄作だが、退職後に自宅で引きこもりがちになって以来の実感である。 

週に1、2度、近所のスーパーへ家人と共に買い物を行けば、その時々の旬の果物が並んでいる。夏のスイカ・ブドウから梨へといつしか移り、現在では柿。その時に、初めて夏も終わり、あぁもう秋なんだと実感する。 

秋と言えば、現役の頃にはもうそろそろ今年度の事業実績見通しと来年度の事業計画と予算の作成に取りかからなければ、と思う時期。 とにかく、現役当時は何らかのメリハリの効いた行動パターンがあり、外出する時の背広の着用ひとつを考えても、それなりに季節の変動を感じられた。 

その意味では、人間の人生の越し方や未来への考察時期と似ている。秋と言えば、形容詞に“スポーツの”“読書の”と付くのだが、この年頃ともなると、この二つの形容詞の使用には若干の躊躇を感じる。 

思うように身体が動かない、長時間の読書をしようにも眼が霞み、兎角にいずれも億劫になる。だが、日常に為すべき何ものも持たない我が身には、辛うじて読書のみが残されている。

別段然したる自慢にもならぬが、私は自分の記憶力の衰えを痛感した40歳半ばから、読み終えた書物の中で、最も重要と思う部分を記述し、ノートに残す癖をつけている。一冊の書物の中で写し取る記述部分は極々限られた分量だが、それでも積もり積もると凄いもので、今やA4阪で700枚にもなる。 

この着想は、アンドレ・モロア(1885〜1976 フランスの文芸評論家・伝記作家.)の次の文章を読み、成る程と思えたので、面倒だと思いながらも積み重ねて来た。「本を読みながら、ノートを傍らに置いて、覚えておきたいと思った意味深い箴言をそこに書きとめておくのは好ましいことである。 

いつか気持がふさいだ時など、これを眺めれば、書きとどめられた賢者たちの思索は、生きてゆくのを助けてくれるだろう。 」
 
さらに、故谷沢永一関西大学教授の次の文章にも誘発された。

「混沌とした現実を整理するために、読書する。これも真実だろう。つまり、色々な本を読み、自分なりにピンセットで摘むしかない。本の読み方としては、まずは、どんなことが書いてあったかを覚えておく。そして、現実にあったことと照らし合わせる。 

だが、本を読んだだけで、人間を知るのは絶望的に不可能である。本が何故、大事かと言ったら、実人生と照合することができるからである。言うならば、実人生は麻雀牌をかき回したような順序不同の状態だ。 

読書で得た知識で、ばらばらの牌を自分なりに整頓していく。 そこに読書の意味がある。 だから、浮世を離れた読書など無意味だ。」 

私も、年とともに自分の能力の限界がだんだん分ってきた。元々の乏しい才能と根気・集中力の上に、一つの分野に集中して独自の境地を切り開く気力も気概も毛頭ない。せめて出来ることは、古今東西のそれぞれの分野で偉かった人の教えを少しづつ受けてみるくらいのことである。私にとって、それが本を読むということである。
 
ただ、“古人の跡を求めず、古人の求めたものを求めよ”という言葉がある。自分で考えよということである。古人の言や良き師は、縁であり邂逅である。 それが機会となって自らの眼が開かれる。 

だが、教えられたところを租述しているだけでは自分のものにならない。教えられたことは情報である。情報は頭や心に刷り込まれて初めて知識となる。 そして、知識の活用こそが知恵である。知恵こそが、生きていくための根源である。 

他人の言葉でなく、自分の言葉で考えて、初めて自分のものになる。まさに、人生を問題にしている時は知識で解決できるが、人生が問題になった時には知識では解決がつかない。知恵なのだ。自分を介さないものは単なる情報、知識でもなく、知恵を生み出す本当の力とはならない。ここが難しい。    

人生、どう生きても100年足らず。これをどう生き抜くかは、自分自身の問題。他人に自分自身の人生を委ねることなどできない。 

だとすれば、どう生きて行くかを先哲先賢から学び、人間として誤りの無いように人生を生き抜いていかなければならない。人生の幸せ・満足を、今こそ先哲先賢に学び、イザと言う時に後悔することのないように生き続けていかなければならない、これこそ読書の効用だろうと思う。
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