2014年10月16日

◆お助け橋・新大橋

渡部 亮次郎



今住んでいる東京・江東区から車で隣の中央区(銀座や東京駅)に行くには両国橋か新大橋で隅田川を渡る。電車だと錦糸町から地下へ潜る総武快速線で東京駅までたった8分。但し東京駅で地上に出るまで5分はかかるけれど。

最近のマスコミは江東区も墨田区も「下町(したまち)」と呼ぶが、戦前(古いネ)要するに60年以上前の東京で下町とは日本橋、京橋、神田、下谷、浅草までで、墨田、江東は括って「墨東(ぼくとう)」と呼ばれ、陰では「川向こう」と蔑まれていた。

確かに江東区には猿江、墨田区には押上(お仕上げ)、向島(むこうじま)大島(おおじま)など、この地域が大昔は海だったことを裏付ける地名が残っている。低層の湿地帯だったものを徳川家康が川を開鑿したり土盛りをしたりして住宅地に仕立てた。

時代がぐっと下って、バブルがはじけたあたりから墨東には高層マンションが林立するようになった。とくに錦糸町駅周辺や湾岸の変貌は目覚しい。時計精工舎の工場跡地には45階のマンションが2006年に完成した。

また東京中のゴミを棄てているのが江東区地先の東京湾。そのあたりにもマンションが林立し、戦後わずか25,000だった江東区の人口は間もなく50万人。少子化が叫ばれる中で臨海地に小学校が新たに開設される始末。

都心に極く近い割に土地代の安いところに建った高層マンションだから若いカップルが殺到するように江東区へ移転してくるからこうなった。こちとら老人は被害者、所得税の3倍の住民税をとられている。

話を橋に戻す。隅田川に多くの橋が架かっているが、新大橋はなんで「新」なのか、旧がどこにも見当たらないが。それが田舎者。すぐ上流にかかっている両国橋がもとは「大橋」だった。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693年)12月7日である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたという説がある。

当時の橋は在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。


橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。

「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」

新大橋は急流のため何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元年(1744年)には存続を許された。

そこで、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、

「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。

その後、明治18年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。

この時の設計監理には東京市の技術陣が当たったが、鉄材は全てアメリカのカーネギー社の製品が使われている。これは、明治の末においても未だ我が国の鉄材の生産量が乏しかったためと考えられる。
http://www.meijimura.com/visit/s55.asp

竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保存されている。

戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。昭和52年に現在の橋に架け替えられた。

現在の橋の概要 構造形式 2径間連続斜張橋  橋長 170.0m幅員 24.0m着工 昭和51年  竣工 昭和52年3月27日 施工主体 東京都  設計 中央技術コンサルタンツ 施工 石川島播磨重工業

歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はし あたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。

「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。

また斎藤月岑の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれている。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、堅川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所である。

新大橋は関東大震災や東京大空襲の際にも隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中でも唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称される。

現在でも橋の西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」、および「人助け橋の由来碑」があり、付近にある水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われている。2007・04・07

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それ以外の参考資料:
http://www.asahi-net.or.jp/~zr8t-iskw/shinoohashi.htm
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