2014年11月07日

◆哀れ 唐人お吉 鎖国の犠牲者

渡部 亮次郎



若い時分、静岡県の下田を訪れた折「お吉」の墓に詣でた。同じ日本人なのに病気の外国人を世話しただけで、穢れた女として差別し、村八分同然にし、自殺に追い込んだ当時の無知な人々を悲しみながらの墓参だった。以下「ウィキペディア」による。

斎藤 きち(さいとう きち、天保12年11月10日 (1841年12月22日 - 1890年3月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。唐人お吉(とうじんおきち)の名で知られる。

下田一の人気芸者 1841年12月22日(天保12年11月10日)、尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれた。

4歳まで内海で過ごし、その後、一家は下田へ移る。7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習った。14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗ったきちは、瞬く間に下田一の人気芸者となる。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応3年(1868年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

下田の人間は死後もお吉に冷たく、斎藤家の菩提寺は埋葬を拒否し、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬った。お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

アメリカ人たちが黒船で初めて日本にやって来たとき、幕府に対して生きた牛の差し入れを要求した。役人たちは異人は船の中で田植えをするのかと仰天した。まさか殺して食べるのだとは考えもしなかった。

日本人が牛肉を口にするのは明治に入ってから。それも天皇陛下が口にされた明治4年以降である。

唐人お吉哀れ 鎖国により世界情勢に無知になった時代の犠牲者と言わずしてなんというべきだろうか。

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