眞鍋 峰松
今月26日の新聞紙上で、久し振りに昔懐かしいお名前を拝見した。旧社会党委員長や衆院議長を務められた土井たか子氏。去る9月20日に肺炎のため85歳で死去された同氏のお別れの会が25日、国会近くの憲政記念館で関係者や国会議員、友人ら470人が集まり開かれたとの記事。
お別れの会場では、初代の社民党党首を務めた村山富市元首相が「低落傾向にある社会党の委員長に就任する時、『やるっきゃない』と決意し、どんな圧力にも屈せず『だめなものはだめ』といい、『山をも動かす』強い力を持った社民党に再生させた」と、お別れの言葉を述べられたとのこと。
土井氏の本職は弁護士であり、同志社大学の田畑 忍教授門下で憲法を学び、「憲法と結婚した」と言われるほど、「護憲」のトップリーダー的存在であった。
余談だが、私の学生時代、この田畑教授について一つの思い出がある。学生自治会役員の一員であった当時、会主催の自主講座の講師として折衝・招聘の役を務めたことがある。
その際、初めて同志社大学教授の研究室を訪問し親しくお話をお伺いしたのだが、同教授は当時雑誌世界などによく執筆されており、これらの雑誌から抱いていた左翼的・先鋭なイメージとは異なり、小柄・やせ気味の口髭を生やした温厚な口調の紳士ぶりにやや違和感を覚えた遠い記憶が残っている。
土井たか子氏には上記のように幾つかの印象的な言葉が残されているが、今思い返すと、これらの言葉は小泉元首相流のワン・フレーズによるプロパガンダ、政治手法。
当時、女性には珍しい位の同氏の毅然とした態度と迫力には感心したのだが、それらの言葉の中で私にとって最も強烈に記憶に残るのは、消費税創設議論に反対の意思表示を示した「ダメなものはダメ」発言である。
だが本来、それは言論を持って戦うべき弁護士としてはあるまじき発言ではなかったのか、との感想である。
古来、日本には「和をもって貴しとなす」の風土があり、これは元々農耕民族としての気質なのだろう。
故会田雄次京都大学教授は、著書「逆説の論理 新時代に生きる日本の英知」の中で、『人は誰でもが、たとえ偉い政治家であろうが、高徳の僧であろうが、みな或る意味において出来損ないである。
社会的に困った出来損ないと、そうでない出来損ないとの差があるだけに過ぎぬ。この世は、こういう哀しい人間同士がお互いに赦し合って生きて行くことで初めて穏やかなものとなる。 泥棒にも三分の理、人の気持を察してやろう。率直に自分に問えば、同じ出来損ないのこと、相手の気持はすぐに察することが出来る。すべて控え目に行こう。
そういった人間観である。そういう心情、観念だけのことではない。出来損ない達のうさを晴らしたり、それを軟着陸させたり、各種の出来損ないに生き甲斐を与える手段や場所が日本ほど多種多様に、そして複雑巧妙に作り出された国はまぁ存在すまい。
一杯飲み屋、銭湯、岡場所、各種の祭り、花見月見の習慣、盆栽作りといった手段や施設、酔っ払いと陰口への寛容さという対応策など、枚挙にいとまがない。もう少し居直って言えばこうだ。
こういう出来損ないが集まって作った「出来損ない社会」だからこそ、変化もある。流動もある。 安堵できずガタガタしているからこそ遊びも面白いし、活気も生れる。』と記述されている。
要は、この日本人の「融通無碍」な考え方こそは、まさに日本民族独特のものだ、と論じられているのであり、私も全く共感する。それだけに、当時の私には、土井氏の「ダメなものはダメ」発言は、日本人としては極めて異質だと感じたのではないか。
また同書では、『建築と同じように社会にも柔構造社会と剛構造社会がある。 そして柔構造社会の方がはるかに発展性と持久力を持つことも同じだ。 固陋なイデオロギーや、独善的宗教の単一支配が行われ、それへの従属を「安全」「理想」として押し付けられる社会は剛構造である。 その理想の押し付けが強い国ほど社会の堅さ、従って脆さも強まる』と続けられている。
この柔軟性こそが日本人の強みだと断定されているように思う。
さらに、外国生れ・育ちでありながら、良く日本的風土と気質の特質を理解されているものだといつも感心するのだが、呉 善花氏の著書「日本人を冒険する」の中の日本人論は、下記の通り。
『日本人は人間をできるだけ共通な観点から見ようとする意識が強く、異質だとか特異だとかする差別的な観点を嫌います。 日本人の多くは、物事をできるだけ相対的に考えようとします。「いろんな見方があるし」とか、「そういう考え方があってもいい」とか・・』と記述。同趣旨のお考えなのだろう。
私は、今さらここで土井たか子の発言をあげつらうという気持は、毛頭ない。尚更、批判すには、当時の時代背景の下での発言という点をも十分に踏まえる必要があろう。
だが、ワン・フレーズによるプロパガンダや政治手法は一般的に理解し易く、歯切れの良さが広く社会に受け入れられ易い。
その故に、逆に世論形成の上で危険なものに成りかねないのでないか、近く行われる衆院選においても頻繁に声高に聞かされるのでないか、最近の橋下大阪市長の発言にも相通じる危うさがあるのではないか、と危惧した。そこで敢えて取り上げてみた次第である。