渡部 亮次郎
秋田生まれといえば、れっきとした雪国男といわれるが、事情があってスキーが全くできない。東京・向島生まれの家人は出来るそうだ。
雪国で生まれ育った証拠に、手と足に霜焼の傷跡がケロイド状に残っている。11月で霰(あられ)や雹(ひょう)が降り始めると、手足が霜焼で腫れ、ところどころ破れて傷になる。どうもビタミン不足が齎す栄養不良症らしい。
夕方、気温が低下すると傷は痛みだし、薬を付けるべく膿で張り付いたガーゼを剥がすのが一苦労。洗面器に張った湯に漬けてから剥がした。痛かった。これだけでも雪国は嫌いだ。
少年当時は対米戦争中。南洋から輸入していたゴムがアメリカの潜水艦に沈められるから、冬になってもゴム長は何処にも売っていなかった。学校での「配給」だけで、長距離通学の私には優先的に配給になった。
だから、その大切なゴム長をスキーの金具でこすったりする事は父親に厳禁された。再生ゴムはとても弱くて、中に入れた藁が靴を破って出たぐらい。スキーをはかないまま敗戦を迎えたが、迎えた頃はスキーへの興味も失くしていた。
ところが、仮にスキーの履ける状態だったとしても、スキーの上手くなるはずはなかった。家の周囲は何処まで行っても水田ばかり。坂というものが無いのだから、スキーで滑り降りるところが無いのだ。
それを知らずに、後年、友人が来て、いきなり国立公園八幡台の頂上へ行き、一緒に滑り降りようという。相手は東京生まれながらスキーが出来る。雪国生まれの私をスキーができないなんて思ってない。あれは高所恐怖症でNYの世界貿易センタービルの最上階でキンタマが上がった時より怖かった。
尤も田圃のはるか先にある旧八郎潟は、冬は氷結するからスケートなら上手でしょう、と迫られた。スケートは滑れる。だがこれを履いたのは雪を払った田圃の上であって、八郎潟ではない。
冬の八郎潟はなるほど氷結したが、強風によりところどころに氷結した山が出来ているのでスケートどころではないのだ。しかも春が近付くと氷は割れる。
父方の祖父の兄は氷上漁業中、氷は大きく割れて流され溺死した。日露戦争から凱旋した祖父は止むを得ず次男ながら家督を相続、孫に私が生まれてという次第。
そういうわけで高所恐怖症から登山嫌いの私は、夏も冬もレジャーには縁遠い次第。決して都会っ子では無いのに田舎が苦手なのである。