渡部 亮次郎
私はNHK記者は20年弱しかつとめていない。その間担当した政治家は河野一郎、園田直、重宗雄三、福田赳夫である。福田を担当するとき本当は政治部長は田中を担当させる心算だったが、飯島副部長の主張で福田になった、と後で聞かされた。
飯島副部長は「角福戦争」は福田の勝利と読み「渡部にも主流派担当の味を味わわせてやりたい」との親心だったそうだ。しかし、結果は福田の惨敗。1年も経たずに田中派の要求で大阪に左遷。
3年後、自分で「工作」して東京に戻ったが、この組織での私の将来は無いと判断。誘いに応じて福田内閣の外務大臣園田直の秘書官となりNHKを離れた。
したがって記者時代に角栄とじかに話をしたことは無い。記者会見でも質問したことも無かった。そのうちに角栄は1993(平成5)年12月16日、75歳で死亡してしまった。糖尿病の合併症としての脳梗塞の末の死だった。
角栄は汗っかきでバセドウ病を自称していたが、後になって分かった事は元々かなり重度の2型糖尿病だったのだ。だから早くにインスリンを毎日注射していれば、あんなに早く脳梗塞になるはずは無かった。
斯く言う私も48歳で2型糖尿病を発症したがインスリンの注射でピンピンし、やがて77歳ではないか。なお糖尿病の2型とは中年を過ぎて発症する糖尿病。1型は出生時既に発症しているもののこと。
さて、角栄の死から既に20年が過ぎ世間は角栄を話題にする事は少なくなった。話題にするとすれば、あれほどの政治的天才からどうしてあんな馬鹿な娘真紀子が生まれたのかと貶す度だ。しかしその真紀子もとうとうと言おうか、やはりと言おうか落選してしまった。
そうした折、大阪で共に働いたいうか毎晩のようにミナミで一緒した呑み友達の城取俊昭から贈られた本「田中角栄」を読んだ。朝日新聞で角栄を一番良く知っていた早野 透が書いた中公新書2186である。
何故かサブタイトルが「戦後日本の悲しき自画像」となっている。このタイトルはおかしい。殆どは早野による褒め言葉ばかりだからである。
私も田中と言うよりも「番頭」格の竹下登(後首相)からの指令で大阪に左
遷されたから角栄を恨むのが筋だが、恨んではいない。今となっては、むしろその政治的天才ぶりに敬服しているぐらいだ。
小学校高等科卒だけの歴だが、頭脳は抜きん出てよかったらしいし、すべてにチャンス(戦機)をつかむ能力が天才的だったようだ。16歳で単身、上京したのは理化学研究所の大河内正敏を頼ってのことだったが手違いで会えず東京での手づるを失ってしまった。しかし挫けなかった。
大河内とやっと出会えたのは2年後だったが田中はその時すでに中央工学校を卒業し建築事務所に勤務していた。大河内は密かにその努力と頭の良さに注目したらしい。
25歳で田中土建を設立した時は既に田中に大きな土建工事を発注していた。田中はここで大いに財をなす。その金をバックに政界に乗り出し、2回目、29歳で衆院議員に地元新潟3区から初当選した。
はじめは民主党系を走っていたが、いつの間にか自由党系に転じ、吉田茂の周辺者となり「保守本流」の有資格者となった。これはその後の出世に格別役立った。親分佐藤栄作や首相池田勇人につながるからである。
余談だが園田直も30代で衆院議員になったが親分河野一郎が長く主流派を維持できなかったこともあって出世が遅れ、初入閣は当選9回を過ぎていた。
角栄が佐藤にどれぐらい献金していたか、早野の記述では触れられていないが、角栄は佐藤派に所属しながら大平正芳を通じて池田に可愛がられたのが出世の糸口となった。
池田政権下で池田と対立する佐藤派に属しながら自民党三役の政調会長に引き立てられ、更に大蔵大臣に出世したからである。これで権力の味を占め、「ひょっとして総理大臣」を目指すことを決意する。
とにかく「戦機」を見出し掴むことに天才的な能力があった。加えて気配りに長じ、カネを散ずることを惜しまなかった。やがて政権が池田から佐藤に移ると幹事長に「出世」した。
それまでに既に神楽坂の芸者を妾とし、2人の男の子をなしていた他、若いときから秘書にしていた女性にも女の子を生ませていた。本妻は当然知っていた。但し女の子は認知していない。
私が記者として角栄を知ったのは自民党幹事長としての角栄であり「番」ではないから私邸まで押しかけた事は無かった。
そのうちにポスト佐藤を争う「角福戦争」になったので益々角栄を取材するチャンスを失くした。早野のように毎日そばで角栄を見ていれば角栄の勝利は初めから判っていただろう。党内の隅々までの気配りとカネ配りを重ね合わせれば判って当然だったろう。
グタグタと書き続けてもしょうがないから止めるが、要するに自民党内には政治能力において角栄に追いつき追い越せる有能者はまだ現れてはいない。
なお角栄は妾宅にいるのに忙しく真紀子の教育には時間を割けなかった。真紀子もまた角栄の表現を借りれば「じゃじゃ馬」の性格で父親の言うことなんか聞くような温和さなど端からなかった。
(文中敬称略)