2014年12月06日

◆古寺旧跡巡礼 住吉神社(山口)

石田 岳彦


一) 住吉神は、あまり知られていませんが、1柱の神様ではなく、「底筒男神(そこつつおのかみ)」、「中筒男神(なかつつおのかみ)」、「表筒男神(うわつつおのかみ)」という3神の総称です。

そして、住吉神を祀る神社の総本社といえば、当然、大阪の住吉大社です。

もっとも、住吉大社は必ずしも最古の住吉神社ではありません。

日本書紀によれば、仲哀天皇の未亡人の神功皇后が、住吉神の神託に従って朝鮮半島に遠征して凱旋帰国し、まず、「穴門(あなと)の山田邑」に住吉神社を建てたと記されています。

更に日本書紀では、その後、神功皇后が近畿に帰り、留守中に起こった皇族の反乱を、やはり住吉神の助けを借りて鎮圧し、そのお礼として住吉大社を建てたとされているので、住吉大社よりも前に、少なくとも「穴門の山田邑」の住吉神社が存在したことになります(なお、最古の住吉神社としては、福岡市博多区の住吉神社を挙げる学説が有力なようです。)。

そして、今から述べます下関市にある住吉神社がこの「穴門(長門)の山田邑の住吉神社」と目されているそうです。

ただし、神功皇后の実在自体に争いがあるので(継体天皇以前の古事記や日本書紀の記載をどこまで信用するかについては学界で争いがあるそうです。)、あくまでも伝説の中ではということになりますが。

二)JR新下関駅は、山陽新幹線の開業前は「長門一ノ宮」という駅名でした。

この「長門一ノ宮」とは長門の国で最も格式の高い神社という意味で、要は住吉神社を指しています。新下関駅からバスで10分足らず、バス停から更に少し歩いたところにある森。そこが住吉神社です。

この神社の見所は、室町時代初期に守護大名の大内氏により再興された国宝の本殿で、九間社流造という変わった形をしています。

ここで「九間」とは、庇を支える柱の間が9つ(つまり柱は10本)という意味になります(京都の三十三間堂も同様に柱の間が33という意味です)。

他方、「流造」というのは、切妻平入(「切妻」とは屋根の形状です。本を半開きにして、開いている方を下にして置いた形を思い浮かべてください。また、「平入」は長方形の建物の長い辺の側に入り口のあることです。)の建物の正面側の屋根を前方に長く延ばして、それを柱で支えて庇(向拝)にしたものです(横から見ると、屋根が「ヘ」型です。)。

流造自体は神社の本殿としては極めてメジャーな形状で、現在日本にある神社の過半数がこの形式の本殿といわれているそうです。

しかし、通常、流造の神殿は小型のもので一間、中型から大型のもので三間という場合が多いので、九間というのは、神社の本殿として異常なほどに横幅が広いということになります。

とりあえず、百聞は一見に如かずで、写真をご覧ください。1枚の写真に収めようとすると、横に長いうえに、前の拝殿が邪魔(毛利元就のこさえた重要文化財の拝殿に対して失礼な言い草ですが)になる関係で、空撮でもしない限り、真横に近い方向からの撮影を余儀なくされます。

構造的に見ると、一間社流造の神殿を横に5つ並べて、屋根を繋ぎ合わせて1つにしたものです。

また、各神殿の正面には千鳥破風という三角形の飾りがそれぞれ設けられていて、視界の左右いっぱいに延びる桧皮葺の焦げ茶色の屋根(これを美しいと思えるか否かで、古社寺巡りを楽しめるかどうかが決まるというのは言い過ぎでしょうか?)の上に整然と5つの千鳥破風が並ぶという、おそらく日本ではここだけという偉観を作り出しています。

5つの神殿には、向かって左側の第一殿から順に、住吉神の荒魂(神々の荒々しい側面を指します。対義語は和魂−ニギタマ−です。)、神功皇后、応神天皇(神功皇后の息子)、武内宿禰(神功皇后の功臣)、建御名方命(タケミナカタノミコト。大国主命の息子で、諏訪大社の神様)が祀られているそうですが、建御名方命だけは住吉神や神功皇后との繋がりがよく分かりません。何故でしょう?

下関に行くのであれば、この住吉神社は一見の価値ありです。私のように古い建物が好きな方なら、この神社自体を目的に下関に行かれてもよいかと思います。(再掲)

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